概要
金栗四三とは「日本初のオリンピック出場選手の一人」である。
種目はマラソン。
ストックホルムオリンピックの他、アントワープ、パリ、合計3つのオリンピックに出場した。
「日本における長距離走及びマラソンの普及」に貢献し「日本マラソンの父」と呼ばれている。
そして「女子体育と女子スポーツの普及」に尽力した教育者でもある。
また「箱根駅伝」の創始者の一人としても有名である。
スウェーデンのストックホルムでは、オリンピック出場の時の逸話から「消えた日本人」として有名になっている。
略歴
熊本県出身。
1911年(明治44年)、当時の世界記録を大幅に更新するタイムを出し
翌1912年(大正元年)、短距離走の三島弥彦とともにストックホルム五輪に出場。
しかしオリンピック初出場の日本は選手の体調管理に対する知識も乏しく、さらにレース当日は最高気温40度という猛暑の中、選手の半数が棄権、脱水症状で死者が1名出る程の過酷な環境であった。
金栗も日射病で倒れてしまい、コース途中の農家で手当を受けて、翌日意識が戻った時には既にレースは終わっており、失意の内に帰国する。
以下は別項を参照のこと。
大河ドラマ「いだてん~オリムピック噺~」
:いだてん
演:中村勘九郎
前半第1部「金栗四三編」の主人公。
及び「全編通しての主人公」となる。
日本で初めてオリンピックに参加した男。
実直かつ純朴な青年だが、良くも悪くも一途な性格である。
そのためマラソンに傾倒して以降は、そのあまりの「マラソン馬鹿」ぶりに、周囲から呆れられたり怒りを買うこともある。
第1部「金栗四三編」
幼少時はひ弱な子供であった。
遠方への小学校へ通うのも嫌がり、兄である実次に「学校部屋」に閉じ込められていた。
その後、兄の嫁が出産した時の呼吸法をヒントに「『すっすっはっはっ』呼吸法」を思いつき、長い時間を走れるようになる。
数年後、往復12kmの通学路を駆け抜けられるまでに成長する。
また旧制玉名中学で教師の五条に「冷水浴」を教えられて身体が丈夫になる。
この「冷水浴」のシーンの「ひゃあああああああ~~~!!!」掛け声シーンは本作品の名物シーンである。
困った事にほぼ史実準拠。
一部のファンには大サービスとなっていた。
学業も優秀だったため、兄弟で唯一進学する事になり、
海兵養成学校の受験には失敗したが、「東京高等師範学校」へと進学し、上京する。
そこで「長距離を走る『競技』」であるマラソンと出会ったことで、マラソン選手としての才能が開花する。
また「生涯の師」となる嘉納治五郎と出会い、嘉納から「韋駄天」と呼ばれるようになる。
ストックホルム大会では本調子が出せず熱中症で途中棄権。
選手としてピークの頃のベルリン大会は戦禍で中止。
1920年のアントワープ五輪では自身の他に三人の選手と共に完走するも、長年の過酷な練習量により足を痛めており、16位と下位に沈んだ。
ストックホルム五輪の後、幼馴染みの「スヤ」と結婚。
「池部家」へと入り「池部幾江」を義理の母親とする。
幾江たちから不審がられながらもスヤのサポートもあり、池部家の支援で競技者生活を続ける事になる。
その一方で、ベルリン大会の中止後は地理教師と並行して教育者として後進の育成へ舵を切り、
「駅伝」という新しい競技を発案し、
1917年4月に日本初の駅伝「東海道五十三次駅伝」。
1920年には「東京箱根間往復大学駅伝競走」いわゆる「箱根駅伝」を開催し、成功させた。
アントワープ五輪後、ベルリンでの出会いをきっかけに女子スポーツの発展を目指して「竹早高女」に赴任。
先に赴任していた「シマ」と共に「女子のスポーツ」にためらいや反発を見せていた村田富江たちを「スポーツの道」へと導く。
女子スポーツを日本各地に普及させるため、富江と梶浦をつれ岡山に遠征、当地で群を抜く才能をもつ「人見絹枝」を見出し、彼女をスカウトする。
大正12年9月1日、「関東大震災」が発生。
「シマ」が被災し行方不明となってしまい、失意の中、熊本へ帰郷。
しかし池部幾江に叱咤激励をされ東京に戻り「韋駄天」として仲間たちと共に東京各地を走り回り、支援物資を配り回る。
そして「復興運動会」を発案し、嘉納治五郎や大日本体育協会の協力を得て開催することになる。
第2部「田畑政治編」
図らずも予選大会で優勝し、「パリ五輪」で3度目のオリンピック代表に選出。
しかしやはりというかとうぜんというか、途中棄権となってしまい、第2部の主人公である「田畑政治」などから非難を受ける。
兄・実次の死を機に、恩師・嘉納の慰留を振り切って故郷・熊本に帰郷。
1936年、嘉納の要請により再び上京。
「東京オリンピック」開催準備に従事するが日中戦争の激化により中止。
第二次世界大戦の勃発により、弟子の「小松勝」を始めとする学生たちを「学徒出陣」により戦場へと見送ることになってしまう。
1964年の東京オリンピック開催決定を受け、最終聖火ランナーを目指し、三度目の上京をすることになる。
そんな中で聖火リレーの最終ランナーの面接会場と勘違いし、東京オリンピックのコンパニオンの選考会に迷い込んでしまう。
その際に田畑が既に委員会を去った後だったことを知り、岩田を通して田畑へ自身の走破の記録を示した日本地図を手渡し、聖火リレーの進路を決めるヒントを与える。
1964年10月10日の東京オリンピック開催当日に会場に訪れ田畑と言葉を交わいた。
開会式直前には、聖火リレーの最終ランナーとしてプレッシャーを抱えている「坂井義則」を励まし、観客席でかつての仲間達と共に開会式を見届けた。
「約55年後のゴール」
以下、史実及び大河ドラマ「いだてん」のラストシーン及び「サゲ(落語「オリンピック噺」のオチ)」のネタバレとなる。
「あまりにも有名な史実」ではあるが、念のために以下、空欄を設ける。
ストックホルムオリンピックで、日本人として初出場を果たした金栗四三。
しかし前出の通り、猛暑の中、熱中症となり途中でリタイアをしてしまう。
ところが彼のリタイアを大会本部は把握しておらず、金栗本人も棄権の意思を届け出ないまま帰国してしまったため、記録上では「レース中に失踪、行方不明」という扱いになっていた。
このためストックホルムでは「消えた日本人」という呼び名で有名となっていた。
時は流れ、ストックホルムオリンピックから約55年後。
東京オリンピック開催から3年後。
1967年(昭和42年)3月。
ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が挙行された際、五輪組織委員会が「金栗四三の記録の不備」に気付き、
「それならゴールさせてやろうではないか」という運びになった。
組織委員会から直々に招待を受けた当時75歳の金栗はストックホルムに赴き、
競技場のトラックを走り、ゴールのテープを切った。
その時、場内では、
「日本の金栗、ただいまゴールイン。
タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。
これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
というアナウンスが流れた。
この記録は現在でもIOC認定のフルマラソンの最長時間走破記録として残り、ギネス世界記録としても認定されている。
現在ではマラソンのルールの変更もあり、この記録が超えられることは今後もないだろう。
なお、このゴールシーンは記録映像として残っており「いだてん~オリムピック噺~」の中で使用された。
ゴールの後、金栗四三は
「長い道のりでした。走ってる間に妻をめとり、子供6人と孫10人ができました」
とコメントを残し、
このコメントが、落語「オリムピック噺」の「サゲ」となった。
関連リンク
いだてん-日本マラソンの父【金栗四三ミュージアム】 / 和水町
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モンティ・パイソン:有名なスケッチ(コント)の中に、ランナーがレース途中に行方不明になり発見されるまでの時間を競う『オリンピックかくれんぼ選手権』という金栗のエピソードを茶化したものがある。なお、スケッチ内のランナーの最長記録は11年2ヶ月26日9時間3分27秒4だった。