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独ソ不可侵条約

どくそふかしんじょうやく

1939年8月23日にナチス・ドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。 不倶戴天の敵と言われたナチスのアドルフ・ヒトラーと共産主義ソ連のヨシフ・スターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。
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概要編集

背景と経緯編集

ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、東方に地続きの植民地、いわゆる「東方生存圏」の獲得が必要であると述べていた。またナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を党是としており、ソ連に対して常日頃強烈な罵倒もとい批判を行い、国内の共産主義者を弾圧した。1936年から始まったスペイン内戦では反共ファシストのフランコを支援した。一貫して反共政策を続けていた日本とも1938年に日独防共協定を締結した。

一方そんなドイツの隣国であるフランスが主導となりナチス政権成立直後の1933年からイデオロギーの垣根を超えた対ナチス包囲網の提案(東方ロカルノ案)がイギリス、ソ連、当時の東欧諸国を巻き込む形で行われたが、各国の足並みは揃わずフランスとソ連が形式的な相互条約を結ぶにとどまった。イギリスに至っては反共に硬直した銀行や投資家の後押しによりドイツと海軍協定を締結し、アメリカウォール街とともに大量のドイツ国債を購入するという事実上の資金援助を行った。

各国がもたつく間にドイツは1938年にオーストリアを併合(アンシュルス)し、次いでチェコスロヴァキアにズデーテン地方を割譲させた(ミュンヘン協定)。

当時満洲における大日本帝国軍関東軍)との絶えざる国境紛争スターリンは頭を悩ませており、極東の情勢が安定しない限りは軍を満洲国境へと集中させねばならず、その間はドイツに近い西部国境が無防備になる事を懸念していた。そんな最中、ミュンヘン協定により英仏が友好国の見殺しに等しい対独譲歩をしたことを見たスターリンは、英仏に見切りをつけドイツとの秘密交渉を始める。

また、対するドイツ側もチェコスロバキアで野望が収まるはずもなくダンツィヒを巡るポーランドとの対立により再び英仏との緊張を高めていたが、第一次世界大戦の敗因の一つに東西で同時に英仏露と戦った事(二正面作戦)があったと考えていたヒトラー個人の懸念もあって、将来的に起こるであろう英仏との戦争にソ連が英仏側として参戦しないという確実な保証を得たいと考えていた(無論、後のバルバロッサ作戦の準備が整うまでの時間稼ぎとカモフラージュという裏の目的もあった)。


日本との紛争が鎮静化するまで西部国境の安定を望むソ連と、来たる戦争に備え東部国境の安全を望むドイツ。互いをペストと罵り合っていたナチズムと共産主義双方の利害が一致した結果、1939年8月23日に「独ソ不可侵条約」が締結された。


協定、調印さる編集

署名は、独リッベントロップ外相、露モロトフ外相によってなされた。

調印後の記念パーティーにはスターリンも出席し乾杯が幾度も行われた。退出しようとするリッベントロップにスターリンは「我がソ連は決してパートナーを裏切りませんぞ、決して、です。」と声をかけるほど上機嫌だったという。

表向きの内容は相互不可侵、つまり一切の武力行使を行わないといったことであった。

しかし裏では、東ヨーロッパにおける独ソの勢力圏についての取り決めが行われており、フィンランドバルト三国ルーマニア東部のベッサラビアをソ連の勢力圏として認め、ポーランドは独ソ両国で分割するとされた。


10日後の9月3日にドイツはポーランドを攻撃し第二次世界大戦が始まったが、同月17日にソ連がポーランド東部へ侵攻し、28日に独ソ境界友好条約が締結されポーランドの分割統治を公のものとした。


各国に与えた影響編集

独ソ接近の情報は断片的に各国のマスコミや諜報機関にも伝わっており、1939年7月7日に日本でも日独防共協定を本格的な同盟に格上げしようとしていた平沼騏一郎首相に対し新聞記者が「独ソ接近説について如何」と意見を求め、平沼は「通商等の経済上の問題で接近が無いとは断言が出来ない。しかし、政治的に独ソの間の接近があるなぞとは認めない」と返答している。またソ連は偽装目的で英仏と対独協定の交渉を継続するフリを続けており、英チェンバレン首相(ミュンヘン協定でチェコを見殺しにした人)が1939年5月24日に「近くソ連と完全な合意に達しえる可能性がある」と演説を行った。


見事に騙されたわけだが


だが当時の政治外交の現場にいた人間や組織の常識では、ファシズムと共産主義は目があったら殺し合いを始めるほどの仲であり、その実績も十分に存在(スペイン内戦)していたため、傘下の諜報機関が断片的な情報を持ってきた程度ではまともに取り合う事はできなかったのである。

ナチス宣伝相ゲッベルスも『昨日、我が国はソビエトと不可侵条約を締結した。これでヨーロッパの力の均衡が揺らぐ。ロンドンやパリは耳を疑うに違いない。世界の反応を篤と見物しよう。』と自画自賛している。


この結末により、それまでナチスドイツに対して「反共防波堤」の役割を勝手に期待し、過剰な支援や妥協を行ってきた欧米日の政治家・外交官・投資家・銀行・大企業は後世に至るまで批難・批判されることとなる。

日本においても1939年8月25日に平沼内閣は日独同盟の締結交渉中止を決定、8月28日には「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」とナチスの「背信」を察知できなかったことに対して責任をとって総辞職した。


条約下での独ソ関係編集

ドイツによるポーランド侵攻を受けて英仏は対ドイツ宣戦に踏み切り、ヨーロッパは20年の時を経て再び戦争状態に突入した。イギリスが制海権を押さえドイツを封じ込めるべくノルウェーの中立を公然と侵犯しながら軍事作戦を進めている事が発覚すると、ヒトラーは北方の安全を確保すべくノルウェー及びデンマークの制圧へ乗り出す。

両国を占領し英仏軍を放逐したドイツ軍は、次いで「黄色作戦」を発動しフランス及びベネルクス三国へ電撃的に侵攻を開始。電撃戦の展開により破竹の勢いでヨーロッパを蹂躙していく傍ら、ドイツとソ連の関係には早くも軋轢が生じていた。

ソ連がフィンランドへ侵攻し(冬戦争)、更にルーマニアベッサラビアとソ連の勢力圏と認められていなかった北ブコヴィナの割譲を迫ると、独ソの対立は表面化した。ドイツはソ連の他にもルーマニアから石油の供給を頼っており、このままでは石油の供給を断たれるどころか、増長したソ連が黒海沿岸からダーダネルス海峡まで要求しかねないと危惧したからだった。


フランスを屈服させ西方の安全を確保した後、英仏軍をブリテン島に押し込めたドイツ軍は「ゼーレーヴェ作戦」を実行してイギリスを追い詰める一方で、ヒトラーはかねてより計画していたソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」への本格的な準備を始めた。その一環として、イギリス軍の空爆を逃れる為という名目でフランスに展開していた部隊を東のソ連国境付近の旧ポーランドへと移動を開始した。ソ連侵攻開始の予定は1941年春とされた。

同時にヒトラーは独ソ不可侵条約により疎遠となっていた大日本帝国と関係を修復しイタリアも交えて「日独伊三国同盟」を結んで枢軸国の結束を強めつつ、バルカン半島へ勢力圏を広める外交政策を展開した。対するソ連も国内では冬戦争の反省から軍の改革や産業の増強に努め、外交面では1941年4月13日に犬猿の仲だったが日中戦争の長期化と対米開戦を視野に入れていた大日本帝国双方の利害の一致の元日ソ中立条約を結んで極東の安全を確保し、ドイツ同様にバルカン諸国への圧力を強めた。

独ソ間の水面下での勢力争いが始まった。


一連の交渉の結果、ハンガリーブルガリア、ルーマニア、フィンランドの支持をドイツは取り付け、残るはユーゴスラヴィアとなった。

ユーゴスラヴィアとの交渉の少し前、1940年10月28日にムッソリーニ率いるイタリア軍がギリシャへ侵攻を開始した。しかしイタリア軍はギリシャ軍に敗北を重ねる結果に終わり、更にはイタリアの侵攻によってイギリス軍がギリシャに介入する口実を得てしまった。

イギリスがギリシャに橋頭堡を築きルーマニア油田を爆撃してしまう可能性を危惧したヒトラーはムッソリーニの失態に怒り、急ぎギリシャを制圧する為にユーゴスラヴィアに軍の通過を認めさせるべく交渉に臨む事となった。独ソどちらかに味方するかで揺れていたユーゴスラヴィアは最終的に1941年3月25日にドイツの要求を受け入れたものの、3月27日にクーデターによって政権が倒れ、ドイツとの了解は僅か数日で覆された。

クーデターの知らせを聞いて大激怒したヒトラーはこれを裏切りと見なし、バルバロッサ作戦を急遽延期して1941年4月6日に周辺国と共にユーゴスラヴィア及びギリシャへ侵攻し、両国を破壊した。


戦いは僅か2週間ほどで決した。ポーランド、ノルウェー・デンマーク、フランス・ベネルクスに続いて、今やヒトラーはバルカン半島でも連続で大成功を収めた。立て続けに成功する彼の電撃作戦を見てスターリンはすっかり委縮してしまった。彼はそれまでの対独強硬路線を急遽転換し、皮肉にも結果的にヒトラーの東欧侵略を黙認する事になったチェンバレンのそれと同様の宥和政策をヒトラーに取り始めた。

バルカン半島を制圧した後、宥和に転じたソ連の動向に付け入る形でヒトラーは着々と対ソ戦の準備を進めた。経済協定で定められていたソ連への輸出を一方的に停止し、ポーランドには最終的におよそ300万を数える大兵力が殺到した。対するスターリンは徹底してドイツとの対立を避け、イギリス・アメリカ政府や国内外の諜報組織、軍からの警告の一切を「イギリスによる挑発」として終始無視し続け、西部国境に集結させた軍に対してはなるべくドイツを刺激しないようにと厳重な命令を出した。ドイツへの対応もせいぜいドイツ軍機の領空侵犯に抗議する程度に留まった。


平和の崩壊編集

1941年6月22日午前4時10分、ヒトラーは遂に「バルバロッサ作戦」を発動し、不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告なしにソ連への侵攻を開始した。北はフィンランド、南はルーマニアに至るまでの全ての戦線からソ連領内へと雪崩込み、独ソ戦争の火蓋が切られた。

今や二国間の平和は完全に崩壊し、両国は最終的に両軍民合わせて3000万を超える死者を出す破滅的な全面戦争へと踏み込んでいった。


A.リード及びD.フィッシャーは、独ソ戦及び独ソ不可侵条約についてこう記している。

条約締結からの22か月間を、多くの国家を駒に見たてて2人の独裁者が指した恐ろしいチェスの試合にたとえるならば、この戦争はそれぞれの軍隊を武器として戦った2人の男の死闘だったと言えよう。(根岸隆夫訳 2022: 656)

現代への影響編集

2009年、欧州議会は独ソ不可侵条約が締結された8月23日をスターリニズムとナチズムの被害者記念の欧州の日(ブラックリボンデー)とすることを決定した。さらに2019年9月、ナチスとソ連という「2つの全体主義体制」による密約が第二次世界大戦に道を開いたとする決議を採択した。


参考文献編集

Read, Anthony, and David Fisher, 1988, The Deadly Embrace: Hitler, Stalin and the Nazi-Soviet Pact 1939-1941, London: Michael Joseph Limited.(根岸隆夫訳、2022年、『ヒトラーとスターリン――死の抱擁の瞬間』みすず書房)

事変はどう片付くか,小林一三,実業之日本社 1939年7月発行

児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第二巻、文藝春秋社、1992年。ISBN 978-4167141370。


関連タグ編集

日独伊三国同盟 / 日ソ中立条約

日独防共協定 / ゾルゲ事件

ミュンヘン会談 / チェンバレン

仮想敵国 / 不倶戴天 / 呉越同舟

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