概要
背景と経緯
事の発端はドイツの対外膨張政策にあった。アドルフ・ヒトラーはドイツ民族を養うべく東欧へ進出し「生存圏」を確保する事を目論んでいた。その足掛かりとして1938年にオーストリアを併合(アンシュルス)し、次いでチェコスロヴァキアにズデーテン地方を割譲させた(ミュンヘン協定)。
ソ連はこのドイツの東欧への侵略を潜在的な脅威と捉えており、ドイツの軍事侵略に対し、「軍事同盟を結成し戦争をしてでもドイツを抑え込む」という強硬策を英仏やポーランドに求めたものの、世界大戦に発展する恐れや共産主義国であるソ連に対する不信感からまともに応じる国は少なく、英仏は1939年8月になって渋々ながらようやく交渉に応じ、ポーランドに至っては終始ソ連の警告や呼びかけを一切拒絶し続ける有様であった。
一方、満洲における大日本帝国軍(関東軍)との絶えざる国境紛争にスターリンも頭を悩ませており、極東の情勢が安定しない限りは軍を満洲国境へと集中させねばならず、その間はドイツに近い西部国境が無防備になる事を懸念していた。結局スターリンはドイツとの戦争がもはや不可避であるにもかかわらず英仏(特にイギリス)があまりにも消極的な態度である事に失望し、英仏との交渉を諦めドイツとの了解へと転じる事にした。
また、対するドイツ側もダンツィヒを巡るポーランドとの対立により英仏との緊張が高まる中、第一次世界大戦の敗因の一つに東西で同時に英仏露と戦った事(二正面作戦)があったと考えていたヒトラー個人の懸念もあって、将来的に起こるであろう英仏との戦争にソ連が英仏側として参戦しないという確実な保証を得たいと考えていた(無論、後のバルバロッサ作戦の準備が整うまでの時間稼ぎとカモフラージュという裏の目的もあった)。
日本との紛争が鎮静化するまで西部国境の安定を望むソ連と、来たる戦争に備え東部国境の安全を望むドイツ。双方の利害が一致した結果、1939年8月23日に「独ソ不可侵条約」が締結された。
協定、調印さる
署名は、独リッベントロップ外相、露モロトフ外相によってなされた。
表向きの内容は相互不可侵、つまり一切の武力行使を行わないといったことであった。
しかし裏では、東ヨーロッパにおける独ソの勢力圏についての取り決めが行われており、フィンランドやバルト三国、ルーマニア東部のベッサラビアをソ連の勢力圏として認め、ポーランドは独ソ両国で分割するとされた。
10日後の9月3日にドイツはポーランドを攻撃し第二次世界大戦が始まったが、同月17日にソ連がポーランド東部へ侵攻し、28日に独ソ境界友好条約が締結されポーランドの分割統治を公のものとした。
条約下での独ソ関係
ドイツによるポーランド侵攻を受けて英仏は対ドイツ宣戦に踏み切り、ヨーロッパは20年の時を経て再び戦争状態に突入した。イギリスが制海権を押さえドイツを封じ込めるべくノルウェーの中立を公然と侵犯しながら軍事作戦を進めている事が発覚すると、ヒトラーは北方の安全を確保すべくノルウェー及びデンマークの制圧へ乗り出す。
両国を占領し英仏軍を放逐したドイツ軍は、次いで「黄色作戦」を発動しフランス及びベネルクス三国へ電撃的に侵攻を開始。電撃戦の展開により破竹の勢いでヨーロッパを蹂躙していく傍ら、ドイツとソ連の関係には早くも軋轢が生じていた。
ソ連がフィンランドへ侵攻し(冬戦争)、更にルーマニアへベッサラビアとソ連の勢力圏と認められていなかった北ブコヴィナの割譲を迫ると、独ソの対立は表面化した。ドイツはソ連の他にもルーマニアから石油の供給を頼っており、このままでは石油の供給を断たれるどころか、増長したソ連が黒海沿岸からダーダネルス海峡まで要求しかねないと危惧したからだった。
フランスを屈服させ西方の安全を確保した後、英仏軍をブリテン島に押し込めたドイツ軍は「ゼーレーヴェ作戦」を実行してイギリスを追い詰める一方で、ヒトラーはかねてより計画していたソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」への本格的な準備を始めた。その一環として、イギリス軍の空爆を逃れる為という名目でフランスに展開していた部隊を東のソ連国境付近の旧ポーランドへと移動を開始した。ソ連侵攻開始の予定は1941年春とされた。
同時にヒトラーは大日本帝国とイタリアとの間で「日独伊三国同盟」を結んで枢軸国の結束を強めつつ、バルカン半島へ勢力圏を広める外交政策を展開した。対するソ連も国内では冬戦争の反省から軍の改革や産業の増強に努め、外交面では1941年4月13日に日ソ中立条約を日本と結んで極東の安全を確保し、ドイツ同様にバルカン諸国への圧力を強めた。
独ソ間の水面下での勢力争いが始まった。
一連の交渉の結果、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、フィンランドの支持をドイツは取り付け、残るはユーゴスラヴィアとなった。
ユーゴスラヴィアとの交渉の少し前、1940年10月28日にムッソリーニ率いるイタリア軍がギリシャへ侵攻を開始した。しかしイタリア軍はギリシャ軍に敗北を重ねる結果に終わり、更にはイタリアの侵攻によってイギリス軍がギリシャに介入する口実を得てしまった。
イギリスがギリシャに橋頭堡を築きルーマニア油田を爆撃してしまう可能性を危惧したヒトラーはムッソリーニの失態に怒り、急ぎギリシャを制圧する為にユーゴスラヴィアに軍の通過を認めさせるべく交渉に臨む事となった。独ソどちらかに味方するかで揺れていたユーゴスラヴィアは最終的に1941年3月25日にドイツの要求を受け入れたものの、3月27日にクーデターによって政権が倒れ、ドイツとの了解は僅か数日で覆された。
クーデターの知らせを聞いて大激怒したヒトラーはこれを裏切りと見なし、バルバロッサ作戦を急遽延期して1941年4月6日に周辺国と共にユーゴスラヴィア及びギリシャへ侵攻し、両国を破壊した。
戦いは僅か2週間ほどで決した。ポーランド、ノルウェー・デンマーク、フランス・ベネルクスに続いて、今やヒトラーはバルカン半島でも連続で大成功を収めた。立て続けに成功する彼の電撃作戦を見てスターリンはすっかり委縮してしまった。彼はそれまでの対独強硬路線を急遽転換し、皮肉にも結果的にヒトラーの東欧侵略を黙認する事になったチェンバレンのそれと同様の宥和政策をヒトラーに取り始めた。
バルカン半島を制圧した後、宥和に転じたソ連の動向に付け入る形でヒトラーは着々と対ソ戦の準備を進めた。経済協定で定められていたソ連への輸出を一方的に停止し、ポーランドには最終的におよそ300万を数える大兵力が殺到した。対するスターリンは徹底してドイツとの対立を避け、イギリス・アメリカ政府や国内外の諜報組織、軍からの警告の一切を「イギリスによる挑発」として終始無視し続け、西部国境に集結させた軍に対してはなるべくドイツを刺激しないようにと厳重な命令を出した。ドイツへの対応もせいぜいドイツ軍機の領空侵犯に抗議する程度に留まった。
平和の崩壊
1941年6月22日午前4時10分、ヒトラーは遂に「バルバロッサ作戦」を発動し、不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告なしにソ連への侵攻を開始した。北はフィンランド、南はルーマニアに至るまでの全ての戦線からソ連領内へと雪崩込み、独ソ戦争の火蓋が切られた。
今や二国間の平和は完全に崩壊し、両国は最終的に両軍民合わせて3000万を超える死者を出す破滅的な全面戦争へと踏み込んでいった。
A.リード及びD.フィッシャーは、独ソ戦及び独ソ不可侵条約についてこう記している。
条約締結からの22か月間を、多くの国家を駒に見たてて2人の独裁者が指した恐ろしいチェスの試合にたとえるならば、この戦争はそれぞれの軍隊を武器として戦った2人の男の死闘だったと言えよう。(根岸隆夫訳 2022: 656) |
参考文献
Read, Anthony, and David Fisher, 1988, The Deadly Embrace: Hitler, Stalin and the Nazi-Soviet Pact 1939-1941, London: Michael Joseph Limited.(根岸隆夫訳、2022年、『ヒトラーとスターリン――死の抱擁の瞬間』みすず書房)