基礎データ
概要
誕生から太平洋戦争まで
山梨県で酒屋を営む裕福な家に生まれる。東京農業大学を卒業後は地元の旧制中学(現在は高校)で生物学教師と柔道部監督を太平洋戦争開戦直前まで勤めていた。
開戦後は実家に戻り、酒屋を継いだ。
政界入りから政界のドンヘ
戦後は自民党の大物政治家である佐藤栄作に弟子入りし、衆議院議員となる。1972年、田中角栄内閣に建設大臣として初入閣。以降、メキメキと実力をつけていき、1987年に盟友の竹下登が内閣総理大臣となってからは自民党内のボス的存在となった(政界のドン)。リクルート事件で竹下が退陣した後、宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一を擁立したのも金丸だと言われている。
失脚
しかし、1992年に東京佐川急便事件(佐川急便からの献金問題)が発覚(この事件が原因となり自民党が下野し、55年体制の崩壊と細川政権発足につながったと言われている。)してからは急速に力を失う。この事件自体は金丸が議員を辞職することで罰金刑で済ませるという一種のバーターが行われたが、別ルートで国税庁が金融債の確定申告をしていないことを突き止め、調査の結果不正蓄財が発覚し、1993年に脱税の容疑で逮捕した。
逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために山梨県甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した。
評価
国政での評価
拉致問題で揺れていた北朝鮮と親密な関係にあったこともあってか解決が遅れたという説が指摘されている。特に北朝鮮外交においては1990年8月、金丸と当時の元首で会った金日成と日本語を用いて差しで対談を行った。やり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがあり、北朝鮮外交における暗黙の了解のようなものがあるとされる。
その他にも以下のエピソードもあり批判の対象となっている。
- 海上自衛隊の新型ヘリコプター搭載護衛艦の1番艦の艦名は「こんごう」となるところを当時防衛庁長官だった彼の手によって「しらね」に変えられてしまった。
- リニアモーターカーの敷設ルートについて当時の運輸大臣(現在の国土交通大臣)だった石原慎太郎が北海道を推したところ運輸省(現在の国土交通省)に乗り込んで現在の中央新幹線のルートに変えてしまったとされている。
- リクリート事件などで身内である自民党議員の処分を率先して行ったことから恨みを買い、東京佐川急便事件を発端とした失脚に繋がったとされている。
一方で洞察力や行動力が優れており、評論家からその凄さを語られることが多い。
- バブル崩壊後の不況に際して「日銀総裁の首を切ってでも公定歩合を下げさせろ」と発言した。これを紹介した経済評論家は「これは十年後にアメリカ連銀の優秀なスタッフが到達した結論と同じである。一体、金融の専門家とは何なのだろうか」「(金丸は金融の素人だろうが)この時点では間違いなく素人が正しかった」と述べるなどすさまじい政治的な直感を持ち合わせた人物でもあった。
- 金丸は国政政治で大きな実績を残した政治家というよりは「国会対策」や後述するような「地元への利益誘導」で名を馳せた政治家とも言え、彼が国会対策委員長に付いていた時には「「足して二で割る」という絶妙の妥協案から「金丸国対」の異名が取られるほど絶妙なものであった。「民主主義の基本は妥協である」という金丸の言葉からも絶妙な案を割り出し、円滑に国会を進める上で大いに役になった。
- その他、世襲を嫌い息子たちを後継者としなかったことや、先述の事件に関して秘書や部下に罪を着せず裁判所へ通う、地元白根に銅像が建てる計画が立った時も「俺はそのような偉人ではない」と断る(代わりに死後有志によって碑が建てられている)など表立って欲を出さなかった点について政治評論家からは評価する声もある。
総理大臣の椅子を断った男
彼を異色の政治家としてたらしめている1つのエピソードとして総理大臣の椅子を断ったことが挙げられる。曰く「「ぼくは総理大臣で苦労するよりも、陰で総理大臣を操っていたほうがおもしろいんだ」と語り、1980年代後半当時の金丸の立場を象徴するコメントとして話題になった。
後に彼が多くの宰相を擁立する政界のドンとなり、キングメーカーと呼ばれるようになったこともまた金丸らしさなのかもしれない。
山梨県での評価
田中角栄や二階俊博同様地元山梨に便宜を図ってくれる政治家であったことや県民のために率先して行動していたこと、いかにも山梨県民らしい性格・態度であったことから県民から絶大な支持を得ており、「金丸の信ちゃん」と親しみを込めて呼ばれていた。
- 先述の中央新幹線をはじめ、中央本線の高速化や中部横断自動車道の誘致、アルプス通りや国道20号バイパスなど金丸によって誘致や建設されたものは数多くあった。
- 中部横断自動車道とアルプス通りは「信ちゃん道路」と言われている。
- 地方病対策で中央本線の線路下を通っていた水路をコンクリートで固めようとしたところ当時の国鉄が工事を拒否(当時国鉄は鉄建公団に好き勝手に線路を敷設させないよう妨害しており、その影響とされる)したため国鉄本社に乗り込み、「山梨県民の命がかかっている」と総裁を説得して工事を認めさせたという話がある。
- かいじ国体では資金不足で開催が危ぶまれたが、金丸が取りまとめて県からの要求以上の資金を調達。会場だけでなく駅舎や道路などありとあらゆる施設が建てられた(やりすぎて監査が入りそうになった模様で、当時の総務庁長官(現総務大臣)がこれを認めている)。
このように強引すぎる部分もあるが、当時の山梨県はありとあらゆるインフラが足りていない状況で、金丸がいなかったらとても人が住める状況ではなかったと言われている。
輿石東など日本社会党議員と仲が良かった一方で、地元山梨の自民党議員であった堀内光雄(富士急行の社主で、のちの自民党政調会長)や田辺国男(元山梨県知事)と対立し、特に堀内光雄とはテレビ山梨で社主と筆頭株主との関係にもかかわらず犬猿の仲であった。
但し金丸失脚を一番喜んでいたのは堀内でも田辺でもなく中尾栄一元建設大臣であったと言われ、金丸が失脚すると中尾はテレビ番組に多数出演し「次期総理候補」を自負していた(選挙で輿石に勝った時が絶頂期だったとされる)。しかしこの行動が次第に自民党幹部や山梨県民から疎まれるようになり、その次の選挙では落選。さらに自身も収賄容疑で逮捕されるという寂しい晩年を迎えることになった。なお、実刑判決を受けながらも病気を理由に収監されないまま逝去したことから山梨県民からは「金丸先生は重篤になりながらも東京の裁判所へ通ったのに」と対比されている。