雲龍型空母
うんりゅうがたくうぼ
大和型戦艦の3・4番艦や空母大鳳が計画された第四次海軍軍備充実計画の次期計画・第五次海軍軍備充実計画において、海軍は空母では大鳳を上回る大型空母3隻の建造を要望していたが、予算不足のためうち1隻は中型空母にされた。のち、この中型空母は対米開戦準備に伴う第五次計画の一部繰り上げ(マル急計画)で正式に計画に乗った。しかし当時は大量の工事で設計を担当する艦政本部が手一杯になっていたため、飛龍の設計図を流用し、そこに小改良を加えることになった。これが、一番艦の雲龍である。
このため、本来なら数合わせの一隻だけのはずが、ミッドウェー海戦で空母を4隻と大量喪失したショックで第五次計画が大幅変更され、改大鳳型5隻と並んで実に15隻が計画された。
ゆえに、大戦直前より戦中の量産型正規空母としては、アメリカ海軍のエセックス級と並ぶ存在となった。
ただし、その後ミッドウェーショックが覚めるにつれ、一部が信濃の建造に振り替えられたり陸上航空隊が優先になったりして、実際起工されたのは雲龍含め6隻、うち竣工までこぎつけたのは3隻にとどまっている。
これでも大鷹型商船改造空母と並ぶ、日本海軍空母最多の同型艦数である。工事に着手しただけのものも含めれば文句なしの一位となる。
飛龍を受け継ぐ基準排水量約17,000トンの中型空母である。しかし、艦橋の位置は赤城・飛龍の不具合を手直しした翔鶴型を受け継いで煙突と同じ右舷側の前部に移っている。また、エレベーターもあまり使われていなかった中央部のものを省いて前後2基になっているなどの改良が加えられている。
また戦時の工事促進で、後期の建造艦では各部分が直線化されたりもしている。
戦争末期の完成のため、空母としての作戦に参加したものは一隻もない。
前述のように、雲龍型は空母としての戦歴、活躍の場には全く恵まれなかった。これはひとえに「(建造が)遅すぎた」、「間に合わなかった」に尽きる。
当時の日本の工業力不足が主要因だったが、数(戦力)が求められる状況にあって、雲龍型のサイズと設計は、必ずしも急速建造に向いてはいなかった。そもそもが対米開戦前の余裕のある時期の設計であり、特に初期建造艦では工期短縮、工数削減の工夫が窺えない点が批判される。
もっとも、設計もまた手間と時間を要する工程であり、とにかく線図を引いて建造に着手するという判断も、あながち間違いではない。さほど工数の減っていない一番艦・雲龍が、基本となった飛龍より1年早く竣工にこぎ着けた点は特筆される。
さらに、戦時急造船や海防艦の大量建造で、曲線部分の一次曲線化、直線化など工数削減のノウハウが蓄積されてくると、雲龍型にも応用されるようになる。機関の構成なども変更されており、姉妹艦とはいえ、後期建造艦では仕様、艦容がかなり変貌した。
カタパルトを実用化できなかった日本海軍では、作戦機を有効に運用するには、雲龍型のサイズが最低限必要だった。この点、カタパルトの装備によって、商船ベースの小型空母を多数建造、運用できたアメリカ海軍とは対照的だった。
加えて、雲龍型の大きさには「上限」もあった。当時の日本では大型艦を建造できる造船施設が限られており、複数の造船所で、同時に多数の空母を建造しようと思えば、雲龍型(蒼龍・飛龍型)が限界だったのである。
しかし、これが災いし、たとえ計画通りの大量建造がなったとしても、烈風や流星改のような大型の新型機の運用には問題が生じただろうとの見方も強い。
(実際、当時の航空本部は「基本設計が古く、新型機の運用も難しい」と、雲龍型の計画にはかなり難色を示したとされる)
竣工した雲龍、天城は、栄光の一航戦を引き継いだものの、日本空母の天王山であったマリアナ沖海戦には間に合わず、ようやく再編なった飛行隊も、他の航空戦隊や地上基地に引き抜かれてしまい、結局、本来の役目を果たす機会は失われた。
雲龍は高速輸送艦として運用中、哨戒機も飛ばせないまま潜水艦の餌食となり、天城、葛城は燃料が枯渇した末に被爆、損傷と、いずれも寂しい結末となった。
それでも、三番艦・葛城が戦後も航行可能な状態で生き残り、最大クラスの復員船(特別輸送船)として、5万人の兵を母国に迎えた活躍は特筆される。戦中よりも戦後の経歴が光る、希有な空母だった。