地方病
ちほうびょう
一般的な風土病として
地域特有の気候や土壌の状態、あるいは周辺に有害な物質がありそれが健康に悪影響を及ぼしている、または病原体を媒介する生物が多く住むなど、諸々の条件からその地方に特定の病気が多くなると、風土病、あるいは地方病と呼称される。
例えば熱帯地方におけるマラリア(熱帯付近に多く住む蚊が媒介する)などがこれに該当するとされることが多い。また他にも、アフリカの一部地域においてエボラ出血熱が感染することが多いが、これは地域特有の病原体のみならず、地域の風習(葬儀において遺体に触れたり口づけたりするなど)が感染を拡大させる原因になっている。
地域風習が殆ど主体的な原因となって風土病を蔓延させた例としては、パプアニューギニアにおけるクールー病なども有名。これも葬儀の際に遺体を食するという食人習慣により、ヒトプリオンを脳に蓄積してしまい発症する病だったという。
今日の日本において特段進行している風土病・地方病は無いとされるが、かつては山梨県甲府盆地地域において日本住血吸虫症が蔓延し、少なくとも百年から数百年以上に渡って地域の人々を苦しめてきた。今日、単に地方病と言えばこの山梨県における日本住血吸虫症を指す。また、この他に富山県ではかつて地方病とはくる病の事を指していた。
日本住血吸虫症という病気は、その名もずばり日本住血吸虫という寄生虫により引き起こされる病気であり、この寄生虫が人の体内で生育・繁殖し、それにより高熱・激しい腹痛・下痢・果ては肝硬変などの重大な症状を発症したのち最終的に死に至る。終末期の罹患者は腹が腹水で大きく膨れ上がることから水腫脹満とも呼ばれ、江戸期以前はこの名前で通用していた。
住血吸虫症全般に言えるのは、ヒトに寄生する前の中間宿主が淡水生巻き貝というパターンが多いことである。日本住血吸虫においては「宮入貝(ミヤイリガイ)」という巻き貝がこれに該当した。
古くは戦国時代、かの甲斐武田氏の家臣にもこれと思わしき症状で亡くなったと考えられる武将(特に小幡昌盛)がおり、この地方の人々は実に数百年、場合によっては千年もの間この病に苦しめられた。
そして明治以降、ついに病原体が発見され、感染ルートが解明されるに至り、その完全な撲滅に至るまでのストーリーは…聞くも涙である。
宮入貝
貝自体はごく普通の巻き貝であるが、日本住血吸虫の中間宿主として、この地方病と切っても切れぬ存在である。
日本住血吸虫は成長の過程において孵化してすぐこの貝へ寄生して成長、セルカリアと呼ばれる段階にまで成長すると期を見て最終宿主の人を含む哺乳類の皮膚を食い破って感染する。
日本住血吸虫は孵化すると、すぐに中間宿主へ寄生することから、中間宿主ごと根絶しないと日本住血吸虫を駆除できない。
そんなわけで、発見され、正式に感染経路(中間宿主)であると判明して以来、殺されまくった。
その殺されまくりようは半端ではなく、地域住民が自主的に箸を使っての手作業で駆除を始めたことに端を発し、次第に水路へ生石灰を投入して一気に殺すなど大規模化。第二次世界大戦後はレイテ島で数千人の自軍兵士が日本住血吸虫症に罹患してひどい目に遭ったアメリカ軍がGHQを通じて効率的な殺貝剤の開発に協力、水の流れが速いと宮入貝の繁殖は困難という研究結果が出ると水路をコンクリートで固め、究極は宮入貝の一大繁殖地となっていた沼をまるごと埋め立ててしまった。
そもそも他種の巻き貝と違う新種と認定されたのは地方病の病理解明の途中での話であり、当時発見した宮入博士の名を以て名前が与えられた。人間による発見以来、常に駆除されるだけの存在だったとも言える。
「怖い」「トラウマ」と今も語られる当時の山梨県における地方病撲滅ポスターでも堂々「宮入貝を見つけて殺そう」とまで描かれており、その恨まれっぷりは日本住血吸虫本体かそれ以上だったとも言え、地方病の根絶が甲府盆地の住民にとって悲願であったかがわかるものである。
さて、時代はくだり間もなく21世紀という頃、既に日本住血吸虫は撲滅され、同時に宮入貝も姿を消してしまった。他方、日本住血吸虫は地方病とは言うものの何も山梨県だけで見られたわけではなく、他県でも少数ながら同じ病が見られ、それらの地域でも同様に駆除作戦が行われた。
実は福岡県久留米市には、筑後川流域に在した宮入貝が日本住血吸虫症撲滅のために人為絶滅させられたことに対し、供養碑が建てられている。
日本住血吸虫こそが病原であり、宮入貝は自身も知らぬまま中間宿主にされてしまった、いわばこちらも被害者である(さながらRPGなどで見られる、真のラスボスに操られて悪の帝王となってしまった者のように)。そんな宮入貝に対して、駆除中は恨みこそすれ、病理の根本原因ではない以上、絶滅させてしまったことへの負い目もあるのかもしれない。
そういった複雑な感情の元、ある意味日本人らしい考えがこの供養碑に表れていると言えよう。願わくば望まぬ死を与えられた宮入貝たちが安らかに眠ってくれることを祈るばかりである・・・。
一方、一部地域においては野生種の宮入貝が生き残っていた、あるいは新規に発生したという情報もある。何も地方病の恐怖再び、というわけではなく、なんと日本住血吸虫を宿していない(と考えられる)同種である。人間にとって最大の懸念が消えた時、初めて彼らとの共存が可能になったと言えなくもない
(もっとも、淡水の巻き貝は住血吸虫に限らず危ない病気のデパートとなっていることが多いので不用意に触らないようにしましょう)。
日本(山梨県)の地方病撲滅に至るまでの色々についてはここに記述するよりウィキペディアの当該記事を読んでいただくのが手っ取り早い。
また、ウィキペディアのこの記事を上回るようなものは殆どないと言える。それだけウィキペディアの地方病に関する記事は詳細かつ読み物としても優れていると評価されている。
俗にウィキペディア三大文学の一つとも言われる(残り二つは八甲田山雪中行軍事件と三毛別羆事件)が、その中でも「秀逸な記事」として認められた唯一のものであるなど、概して非常に評価の高い記事である。
驚くことはこの記事をほぼ1人の人物(さかおり氏)が書いたことである、彼は以前から山梨県関連の記事を執筆していたが地方病に興味を持ち始めると山梨県立図書館などに足を運び、様々な本を漁って執筆を行なっている。彼はその後も信玄公旗掛松事件で「秀逸な記事」に選ばれるなど、ウィキペディア日本語版随一の執筆者と称されていた。
しかし嫉妬深い一部のウィキペディアンに狙われ、ノートページで「独善的で、個人的感情が入っている」と言いがかりをつけられ、内容の大幅削除を提案された(実際三大文学の他二つも狙われて削られており、八甲田山雪中行軍事件は復元されたが三毛別羆事件は未だ復元されていない)。これに対しさかおり氏は抵抗したが人格攻撃まで受けるようになったことから、ついに執筆者を引退してしまった(管理者として活動中)。この騒動により「まともに執筆しても言いがかりをつけられる」というイメージが生まれてしまい、ウィキペディア日本語版の低質化が危惧される要因になっている。