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概要編集

1915(大正4)年の12月9~14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢で発生したヒグマによる熊害(ゆうがい)事件。

穴持たず(冬眠に失敗してうろついてるクマ)」が三毛別の開拓村を襲撃し、村民7人が死に、3人が重傷を負うという日本史上最悪の熊害事件となった。

 

ちなみに穴持たずのクマは普段より気が荒くなっているものの、それでもこの件のクマ程甚大な被害を出したヤツはいない。そもそも「穴持たず」というのはこの事件をきっかけに広まった当時のハンターの豆知識のようなものであり、現在の熊の生態の研究が進んだ結果間違った知識(他の動物の冬眠とは異なり熊が餌をとれないと冬ごもりに入る等)であるため現在では「穴持たず」という表現自体が適切ではない。


当時三毛別地区は開拓が始まって間もない事もあって野生動物(クマ含む)が出没するのはザラであり、当時の調査でも熊とのトラブルは多発しておらず良好な関係を築いていたことが記録されていた。

現在ではクマの生態を見誤った住民と加害クマが生活圏に近づきすぎた結果起きた悲劇のが大きいと考えられており、自然の生態は人間の都合だけで成り立つものではないということを痛感させる事件であった。


複数人を食らった事の凄惨さとショッキングさに目が行きがちだが事件の舞台となった六線沢に建造された全15戸の内、人身被害以外の獣害(家財や食料を漁られるなど)を含めこの熊の被害を受けた家の総数は11戸と村に存在する家の半数以上にも及んだ。

単に複数人を殺しただけでなくこの熊が村全体を襲撃したという点でもこの獣害被害の規模の大きさと重大さがうかがえる。



現れたヒグマの特徴編集

種類はエゾヒグマで、性別はオス。

体長2.7m体重340kgで、さらに垂直に立ち上がった時の大きさはなんと3.5mにも及ぶといったように、従来のエゾヒグマの平均値を遥かに凌駕する巨体だった。

また、胸部から背部にかけて白い毛が通った、いわゆる「袈裟掛け模様」が特徴で、これに由来して「袈裟掛け」という通称を持っている。

ちなみこの三毛別の熊は、本来三毛別地域に生息していたクマではなく他の北海道の地域から来たクマである。


クマは習性の一つに「一度覚えた味に執着し続ける」というものがあり、このヒグマはそれが人間の女性だったと推測されている。

実際に犠牲者の内、食い殺されて死亡した人の多くは女性で、解剖の際には犠牲となった女性達の骨肉の一部や衣服の切れ端が出てきており、さらに事件の最中に女性が使用していた道具を噛み砕く行動が見られた事も後になって判明している。


事件経過編集

まず、これを読む皆様には、一つ心得ていただきたいことがある。

熊は獲物に対する執着心が強いということだ。

この獲物への執着心こそが、ここまで被害が大きくなった一因であるともいえる。


事の始まり編集

時は大正、1915年の冬。

三毛別の更に奥に位置する六線沢集落で、民家の軒先に干されていたトウモロコシがヒグマの食害に遭った。

幸いこの時は馬が暴れたせいでヒグマは退散したのだが、そのヒグマは再びトウモロコシを食害。

そして、地元の猟師が呼ばれて駆除にあたったものの、仕留めることはできなかった。かくして、そのヒグマは人間の作物の味を覚え、「人里に行けば餌がある」と学習したのだった。

呼ばれて駆除に当たった猟師は、この熊の巨大な足跡の大きさを見、冬眠に失敗した「穴持たず」と呼ばれる熊で、おそらくその巨体を収められる穴が見つからなかったのだろうと推測した。

冬眠できないということは当然普段通りにエネルギーを消費する上、冬なのでエサも少ない。つまり腹ペコな分凶暴性が増すという危険な状態なのだ。

 

羆 人を襲う編集

12月9日午前11時半頃、六線沢集落の太田家。

ちょうどこのころ、集落の男たちは冬は唯一となる外界との交通手段、「氷橋」を作る作業に駆り出されており、各々の家には女子供しかいないような状況であった。

当時太田家に寄宿していた長松要吉(当時59歳)は、山での作業が終わり、いったん帰宅する。

すると家の中の囲炉裏端で、太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(当時6歳)が、まるで居眠りするような格好でうつむいていた。

長松は幹雄に声をかけるも、彼はうんともすんとも言わない。不審に思った長松が幹雄をよく見ると、頭の横に親指ほどは入りそうな穴が開き、すでに事切れていた

そして当主である太田三郎の内縁の妻、阿部マユ(当時34歳)の姿が見つからない。


二人は男たちのいぬ間に、ヒグマの餌食になっていたのだった。


現場検証編集

長松は慌てて氷橋建設の現場に走り、男たちに事件の発生を伝える。そして男たちは太田家に集まって現場検証を行うことになった。


その結果以下のことが判明する。

  • ヒグマは、家の窓から侵入した(当時の北海道の集落に窓ガラスなど望めるはずもなく、障子すらないところも多かった)。
  • ヒグマはマユを餌とするために持ち帰ったとみられ、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。
  • 窓から山に向かい、マユを引きずったとみられる血の跡がついていた。また足跡の巨大さから、以前にトウモロコシを食害したヒグマと同個体とみられる。

当時太田家の軒先にもトウモロコシが干してあり、当初ヒグマはそれを食べようとしていたとみられる。

しかし家人がそれを見逃すはずもなく、おそらくマユか幹雄が悲鳴を上げたのだろう。ヒグマはそれに激高し、彼女らに襲い掛かったのだと推測された。

そして事件を通報するため、斉藤石五郎(当時42歳)が30kmほど離れた苫前村役場や、19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かうこととなり、翌日出発した。


羆との遭遇編集

翌12月10日、六線沢集落の男たちは銃や鎌などの得物を手に山に入った。目的はもちろん、ヒグマの駆除と阿部マユの遺体を回収することである。

午前9時ごろ、太田家から150m程の山中で、男たちはヒグマと遭遇した。

すかさず銃を向けたものの、整備不良や不手際などで発砲できたのは5人中1人だけ。しかし、ヒグマは発砲音を聞いて逃げて行った。

男たちがヒグマのいたあたりを確認すると、地面が不自然に盛り上がっている場所を発見した。そこを掘ってみると、出てきたのは黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部


マユはすでに熊に食い殺され、残りは保存食とするべく土饅頭にしていたのだ


しかし遺体は回収できた。もとから残されていた幹雄の遺体も棺に入れ、その夜に通夜が営まれることとなる。

 

通夜の襲撃編集

遺体が発見された夜、太田家にて通夜が営まれた。

ヒグマの恐怖から、参列したのは六線沢から3人と三毛別から2人、幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけとつつましいものとなった。

そして日も暮れた20時ごろ、突如大きな物音が響き、壁を突き破って巨大な獣が飛び込んできた。


ヒグマが獲物を奪われたと認識して取り返しに来たのだ


突然の来襲に通夜の会場は大パニックに陥り、我先にと梁の上に避難を始めた。

ヒグマは棺桶をひっくり返し、遺体を持ち去ろうとする。しかし会葬者の一人(日露戦争帰り)が持っていた銃を発砲したことにより、太田家への襲撃をあきらめて立ち去った。

会葬者たちは、そのままヒグマは山に退散したと思った。


だが実際は違った

 

明景家の襲撃編集

太田家への襲撃をあきらめたヒグマは、そのまま500mほど下流の明景家に向かった。

当時、明景家には

  • 妻:ヤヨ(当時34歳)
  • 長男:力蔵(当時10歳)
  • 次男:勇次郎(当時8歳)
  • 長女:ヒサノ(当時6歳)
  • 三男:金蔵(当時3歳)
  • 四男:梅吉(当時1歳)

の7人家族の他、事件を通報するために戸主が不在だった斉藤家から

  • 妻:タケ(当時34歳 妊娠中)
  • 三男:巌(当時6歳)
  • 四男:春義(当時3歳)

の3人。そして、事件の第1発見者である長松要吉が男手として来訪しており、計10人が家の中にいた。

後述する慟哭の谷によると、戸主の明景安太郎(当時40歳)は所用で不在だったとされている。


20時50分ごろ、窓を破ったヒグマが家の中に突入。その場にいた人々に次々と襲い掛かった。

それぞれ物陰などに隠れるも、ヒグマはその嗅覚で次々に場所を暴き、食い殺していく。そして、斎藤タケが居間に引きずり出された。

当時身重だったタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と叫ぶも、当然飢えた獣に人間の懇願など通じるはずもなく、ヒグマはタケの腹を裂き、上半身から食い始めた。

そのころ、襲撃の報を受けた男たちが銃を手に駆けつけたが、そこで聞いたのはヒグマが骨を噛み、肉を引きちぎる音と人間の悲鳴だったという。


男たちはヒグマを仕留めるために話し合った。

周りを囲み、一斉に家に銃弾を撃ち込むことや、家に火をつけることも検討されたが、生存者がいる可能性を考えて却下。

「2つある入口の片方に銃を持った射手を集め、合図と同時にもう片方の入り口から金物を叩いた音や叫び声で追い出す。そして、出てきたところを射手が仕留める」という方法が決行された。

しかし出てきたヒグマは家の軒先を通るように走り、影と同化して狙いの付けづらい状況になる。1名が発砲したものの当たらず、再び仕留め損ねることとなった。

この襲撃での被害者は次の通り


死亡

  • タケ
  • 金蔵
  • 春義
  • タケの胎児

計5人

重傷

  • ヤヨ
  • 梅吉
  • 要吉

計3人

無傷で生還

  • 力蔵(雑穀俵の後ろに隠れていた)
  • ヒサノ(失神し居間で倒れていたが、なぜかクマは彼女を狙わなかった)
  • 勇次郎(重傷を負った母ヤヨや弟梅吉と共に脱出し、奇跡的に無傷)

計3人


討伐隊結成編集

12月12日、斉藤石五郎が苫前町中心部に到着し事件を通報。

それを受けた北海道庁警察部は管轄の羽幌分署分署長、菅貢に討伐隊の組織を指示。三毛別地区長の大川興三吉宅に討伐本部が設置され、本格的な討伐が始まった。


しかし、森でヒグマを仕留めるのは簡単なことではない。ヒグマの茶色い毛皮は、他に何もない雪原では目立つが、森の中では影や木立に同化して分かりづらいのである。

そして、菅はとうとう、ある作戦を決行するに思い至った。

 

死体を餌に編集

菅が思いついた作戦とは、ヒグマの持つ獲物への執着心を利用し、犠牲者の遺体を餌として熊をおびき寄せるというもの。

普通であれば非道とそしられ、石を投げられるような行動だろう。なので菅も罵倒や非難は覚悟の上で遺族たちに作戦を説明し、許可を求めた。

 

しかし誰一人反対する者はおらず、作戦が確定。もはや事態はそこまで切羽詰まったものになっていたのである。

かくして、作戦は直ちに実行される事に。

 

被害に遭った明景家は梁を補強され、その上に射手が乗るやぐらが組まれた。そして、その下にはヒグマに殺された被害者たちの遺体が安置された。

そして日は暮れ、ヒグマが姿を現した。しかし、銃や火薬のにおいをかぎ取ったのか、前のように思い切りよく突入しようとしない。

結局何度か家の周りを回った後、山に戻っていきこの作戦は失敗に終わった。


ちょうどこのころ天塩一の熊撃ちとも呼ばれたヒグマ撃ち、山本兵吉が三毛別に到着した。

ほぼそれと同時の12月18日には、旭川に駐屯する大日本帝国陸軍歩兵第28連隊から、ヒグマ討伐のため、将兵30名が出動している。


そして生き残った六線沢地区の住民は総避難を余儀なくされ、ほとんどの家財道具や馬などの家畜も置いたまま、三毛別の分教場に避難することとなった。


不審な切株編集

住民全てが避難し、文字通り無人となった六線沢で、件のヒグマは暴虐の限りを尽くした。

8軒もの家に押し入っては手あたり次第物をひっくり返したり、ニシンを漬けていた樽をひっくり返し、その中身に糞をぶちまけたりと暴れまわる。

この様子を熊を追っていた兵吉も目撃したが、仕留めることはできず見逃してしまう。


そして獲物の気配を追って、避難所である三毛別の分教場の方へ向かったのだった。


12月13日、事件が始まったころに男たちが作った氷橋は、ヒグマに対する最終防衛線となっていた。

20時ごろ、その氷橋で見張りを行っていた一人が1つの違和感に気づく。対岸に6つあるはずの切株が明らかに1個多く、しかもその1個は動いているのだ。

直ちに菅隊長をはじめとした射手たちが集められる。しかし暗闇でヒグマか人間か判別がつかない。(当日、一部の射手が「決死隊」として六線沢に向かっていた)

そこで、「誰何を行いそれに応じなければ撃つ」という方針で決定した。

菅隊長が訪ねる。


「人か!?熊か!?」


相手からの返事はなく、菅隊長は直ちに発砲を命令。銃声が鳴り響くと同時に、その影は六線沢の方へ消えて行った。


ヒグマの最期編集

翌12月14日の朝、討伐隊が昨晩の怪しい影のあたりを調べると、件のヒグマの足跡と血痕が見つかった。とうとうヒグマに一矢報いたのだ

怪我を負って動きが鈍くなった人喰い熊を仕留めるべく、討伐隊はヒグマの足跡が続く方向の山に山狩りに入る。


一方そのころ、兵吉は討伐隊とは別ルートで山に入り、目撃した例のヒグマを追っていた。

山頂付近まで登ったところで、兵吉はその視界に例のヒグマをとらえた。ヒグマはミズナラの大木によりかかり、傷ついた体を休めていた。

そこで彼は愛銃としていたロシア製ボルトアクションライフル「ベルダンII M1870」を手に取った。実包を装填すると20mほど前進し、ハルニレの影に身を隠す。

そしてヒグマの心臓に狙いを定めて引き金を引いた。

しかし弾が命中した後もヒグマが立ち上がってこちらをにらんだため、再び発砲。2発目はヒグマの頭を貫き、ここに人喰いヒグマは絶命した。


事件終息編集

兵吉が討伐隊と合流した後、ヒグマの死骸は住民によってそりで下された。その際、晴天だった空が突然曇り始め、最終的には吹雪となって住民や討伐隊を打った。

 

この天候急変は、「人喰い熊はあまりの罪の重さから死んでもあの世へ行けず、それを嘆いて慟哭する。そのために天気が荒れる」という伝説にちなみ「熊風」「羆嵐」として後世に語り継がれていく事となった。


死骸を麓に下すと、三毛別の分教場で、仕留められたヒグマの調査と解剖が行われた。

その結果、ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、体長2.7m、重さ340kgで、推定7~8歳ということが分かった。

そして、解剖ではヒグマの胃の中から大量の人骨や人肉、髪の毛や衣服などが発見された


さらに、この解剖は六線沢や三毛別以外の住民や地元のアイヌも見学に来ていたのだが、その見学者から、何人かが次々に証言した。

「このヒグマは太田家を襲撃する数日前に雨竜郡、旭川付近、天塩で3名の女性を殺害し食害した」と。

そして、上記の通り彼らが食害の証拠として出てくると言ったものが本当に胃の中から出てきた。


このヒグマは事件以前から人間を食べていたのだ


こうして、日本史上最大の獣害事件、三毛別羆事件は、終息したのだった。


その後ヒグマの屍は討伐隊に棒で叩かれたり蹴られて切り裂かれその後供養として調理されたが肉は筋が多く不味かったと言う。人喰いの大ヒグマだしそりゃそうだ。毛皮はその後板枠に貼り付けにされ、しばらく三毛別会館にて天日干しにされた。北海道各地から見学者が集まったという。現代までには残っていない。第二次世界大戦の空襲で焼失したと思われる。


事件の立役者 山本兵吉について編集

最終的にヒグマを射殺し、この事件における最大の功労者となった山本兵吉だが、彼の人生がこれまたすごい。

もはやリアルチートに片足を突っ込んでるような人物なのである。

1858年、幕末の動乱のころに生を受け、若いころは樺太で猟師の仕事をしていたといわれる。そして、兵吉は樺太である伝説を残した。

なんとヒグマと鯖裂き包丁のみで対峙し、刺し殺してしまったのである。この逸話が知れ渡ると、兵吉は皆から「サバサキの兄ぃ」と呼ばれるようになった。

射撃の腕も大したもので、小さくて動きが鋭い山鳥やリスも銃弾一発で仕留めることができたという。

そして46歳の時に日露戦争に従軍した際も、持ち前の体力と射撃で活躍。三毛別のヒグマを仕留めたロシア製ライフル銃「ベルダンII M1870」とトレードマークの軍帽は、この時にロシア軍から鹵獲したものである。


酒癖が悪いことでも知られており、事件後は2~3年三毛別に住んでいたが、「熊殺しの英雄」と村人からチヤホヤされるため、酒を呑んでは村人と喧嘩していたらしい。

一応、彼の名誉のために言っておくが、酒が入っていないときはいたってまともである。特に子供には優しく、後に猟師となる大川春義に熊撃ちのコツをよく教えていた。


この大川も、リアルチートに片足突っ込んでるようなすさまじい人生を送っているのだが、その話はまたの機会に。


後世に与えた影響編集

巨大なヒグマが村を襲い、次々に7人を食い殺すというショッキングな内容や、最後にヒグマを仕留めたのが酒癖は悪いが天才的な腕を持つ名マタギというドラマチックな終息から、後の創作作品に与えた影響は多い。

熊、特にヒグマの恐ろしさを語ったり、ヒグマへの安易な接触を戒める際には必ずと言っていいほど引き合いに出される事件でもあり、自然と人間の付き合い方の議論でもよく話題に出される。


この事件を題材にした作品編集

慟哭の谷

1961年、林務官として苫前町に赴任した木村盛武によるドキュメンタリー。

当時本件は僻地で起こった事件として、不正確な記録しか残っていなかった。それを憂慮した木村が生存していた被害者から情報を収集しまとめあげて制作した「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」から一部抜粋して改めて書き上げたドキュメンタリー。

1994年に「慟哭の谷―The devil’s valley」として共同文化社、2015年には「慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」として文春文庫からと度々出版や再版がかかっているので、現在でも入手しやすい。

kindleに電子書籍版も存在する。


羆嵐編集

羆嵐

この事件を元にした吉村昭の小説。

登場人物の名前が変えられたりしているが、ほぼ史実通りに描かれている

後にテレビドラマ(1980年放送、三國連太郎主演)、ラジオドラマ(1980年放送、高倉健主演)、舞台劇(1986年上演)が制作されており、この事件を描いた作品で一番メジャーな存在。


羆風編集

【野性伝説】羆風・山本兵吉

同じく、この事件が題材の戸川幸夫による小説。

こちらは登場人物もすべて実名で登場しているほか、熊の心情や人を襲うに至った背景も描写されているのが特徴。

後に矢口高雄によるコミカライズが行われ、コミカライズの文庫版は現在でも比較的入手しやすい。

この事件のモチーフが入った作品編集

キムンカムイ編集

週刊少年マガジン』で1999年12号から51号まで連載された作品。舞台は同じ北海道であるが現代風にアレンジされ、山に遊びに来た少年三人組とテレビクルー、大学生一行がヒグマに襲われていくというもので、所々で三毛別羆事件を参考にした所がある。そのヒグマは最後刑務所から脱走した殺人犯と相撃ちになっている。


この事件のモチーフが入ったキャラクター編集

エゾヒグマ(けものフレンズ)編集

ふたつのアザ

動物を美少女擬人化させたメディアミックス作品「けものフレンズ」に登場するフレンズで、大きいものをこよなく愛する「ラージラブズ」及び「L♡Lベアーズ」のリーダー。

アプリ版けものフレンズ3において、本事件をモチーフにしたと思われる名前のスキルを所有している。


二瓶鉄造編集

悪夢の

野田サトルによるマンガ「ゴールデンカムイ」の登場人物で、「冬眠中の熊もうなされる悪夢の熊撃ち」として知られる伝説の猟師。

その狩猟の腕や、200頭以上の羆を仕留めてきたという点は、本事件を終息させた山本兵吉をモチーフにしていると言われている。


『ゴールデンカムイ』作中ではヒグマの脅威が極めて多く描写され、解説部分では当事件への言及もある。

ガチグマ(アカツキ)編集

アカツキランクマ解禁!

ポケモンSV』のDLC前編「碧の仮面」に登場する、ガチグマの特殊な個体。

その見るからに恐ろしげな風貌もさることながら、サイズが高さ2.7m、重さ333kgと三毛別事件の熊とほぼ同じ数値に設定されていることから、開発側もある程度この事件のことを意識したのでは?とする見方がある。

ただし、人間と遭遇してもよほどのことがない限りは即座に襲い掛からずに様子見に徹する等、強面な風貌に反して凶暴性はそこまで高くはないという相違点もある。


余談編集

本事件のWikipedia記事は、凄惨な事件の経過を克明に描いた内容からかつて一部では「地方病 (日本住血吸虫症)」「八甲田雪中行軍遭難事件」と並んで「Wikipedia3大文学」のひとつに数えられる名記事とされていた。しかし、過度に修飾的な表現が百科事典の領分を超えている……というよりそもそもその大半が『熊嵐』の剽窃も同然と判断され、現在は淡々と事実のみを記した平素な文に改稿されている。


なお事件を記録した関連著書の大元である「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」があまりに膨大な情報量のため『慟哭の谷』『熊嵐』では端折っている部分が多く事件の全てを記録しているというわけではないので注意が必要。

この為、改変前のwikiの文章も実際の事件記録の20%程度の内容にしか過ぎない



関連動画編集

事件の内容動画

現在の事件現場や事件詳細などの解説動画


関連タグ編集

ヒグマ 北海道 赤カブト

検索してはいけない言葉



  • ジェヴォーダンの獣 18世紀のフランスの獣害事件。多くの人間を食い殺して中々捕まらなかった点や、遺体が残らなかった点が共通。

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