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概要

北海道を中心に、樺太南部、千島列島本州東北地方北部にかけて居住していた民族。アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味し、もともとは「カムイ」(自然界におけるのような霊的存在)に対する概念としての「人間」という意味であった。「アイヌ人」と呼ぶこともあるが、「人」という意味の単語が連続する事になるため、正しい呼び名ではないとする意見もある。


北方の厳しい自然と共に逞しく生きるその姿は、今なお人々の心を魅了してやまない。


文化

アイヌは狩猟民族であり、北の海をまたにかける交易者・漁民であり、武勇に優れた戦闘民族でもあった。狩猟用の矢やに猛毒のトリカブトを用いたを積極的に使っていたことでも知られ、ヒグマシカなどの大型動物を効率的に狩ることができた。この毒矢はしばしばアイヌ同士や和人との抗争にも用いられた。


アイヌの生活は交易への依存が強く、古くから日本と、中華帝国・モンゴル満州の間に立って交易を盛んに行っていた。特に、アイヌは鉄の精製技術を持たなかった(アイヌの祖となる人々は原始的な鍛冶を行っていたが、その技術は次第に廃れたようである)ため、鍋や刃物など様々な鉄製品を和人や大陸からの輸入に頼っていた。また、米や茶など北海道で育てることが難しい農作物も、和人から入手していた。一方で日本の食文化で重要な位置を占める昆布の歴史はアイヌとの交易の存在なしには語れないし、干しアワビなど北海道産の乾物は古くから中国に盛んに輸出されていた。アイヌは和人を「シサム」と呼んだ。これは「隣人」という意味であり、古くからアイヌと和人が密接な交流があったことを示している。


基本的に狩猟採集と交易の民とされるアイヌだが、北海道では農耕も行っており、特に気候が温暖な道南胆振日高地方では畑で栽培したヒエキビなどの穀物が高床式のに蓄えられ、常食とされていた。ただ、アイヌは自給よりも交易に重きを置いた民族であったのと、品種改良されていない農作物では(道南を除いた)北海道の厳しい自然に耐え切ることは難しく、大勢の民の腹を満たす収穫は難しかったため、農耕中心の生活を送ることはなかった。一方、戦国時代や江戸時代にヨーロッパや東南アジアから日本にもたさられたジャガイモやカボチャなどは、伝来して間もなくアイヌも栽培を開始しており、新しい物を貪欲に取り入れる面もあった。


北海道以上に気象条件の厳しい樺太・千島では農耕は全く行われず、食文化も魚や獣肉が中心であった。


歴史

アイヌは縄文人の直系子孫という見解もあるが、同じく縄文人の子孫である和人が弥生時代前後に朝鮮半島中国大陸から来たとみられる弥生人と混血したのに対し、アイヌはより新しい時代に北方民族の強い影響を受けている(和人に比べるとアジア大陸からの影響は相対的には少ないと考えられる)。


北海道縄文人の末裔である擦文人に、3世紀から9世紀にかけて樺太から流入した漁撈・狩猟民族のオホーツク人(『古事記』『日本書紀』にて「粛慎(ミシハセ、アシハセ)」と呼ばれる者たちと同一か)が交わり、さらに本州の和人との交流の深まりによって器を用いるようになり、それまでの土器石器を作らなくなるなど擦文人の生活文化が大きく変容、現在のアイヌに連なる系譜が誕生したと考えられる。


いわゆるアイヌ文化の成立は、それから更に時代が下った12〜13世紀、平安末期から鎌倉時代頃とされている。土器の消滅で編年が困難になった上、アイヌは歴史的に口述文化であり文字文化を持たなかったため、擦文文化からアイヌ文化への移行について詳しく解明するのは困難であるが、同時代の北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、この時期に擦文・アイヌ人と、オホーツク人との衝突や交流による文化的変容があったものと想像される。同時期の道南には「和人に似て言葉が通じ」る渡党という集団がいたが、これは擦文人が和人化したものと考えられる。渡党はその後、本州から渡海した安東氏配下の武士や浪人衆を合わせて完全に和人化し、後の松前藩に繋がる。


一方、北方では樺太のニヴフ(オロッコ)を攻めて居住域を樺太中部にまで拡大、樺太に領土を広げていたモンゴル帝国と長年にわたって交戦し、アイヌ同士でも武力を用いた抗争を盛んに行った。ただ、文字を持たず、統一政権を持つこともなかったため、詳しい戦いの様子については残されていない。モンゴル側には部分的に当時のアイヌの様子が記録されており、ニヴフの領域を脅かしていたことから彼等の要請を受けて戦ったことが記されている。モンゴル側はアイヌとの戦いに相当手こずった模様で、40年以上に渡って小競り合いを繰り返した挙げ句、”アイヌ側の降伏”という体をとってもらうことで手打ちにせざるを得なかった。


北海道アイヌは、近世初期にアイヌ最後の大規模戦争であるシャクシャインの戦い松前藩武士団と衝突し、鎮圧された後は交易の主導権を奪われ弱体化、事実上松前藩の支配下に入ることになる。それでも当初は支配も緩く、松前藩は所領の代わりに家臣たちにアイヌとの交易権を与え、アイヌは指定された場所で松前藩士と交易していた(商場知行制)。ところが時代が進むと、藩士たちは商人に交易権を委ねるようになり(場所請負制)、アイヌは商人たちから激しい搾取を受けるようになる。


18世紀も後半に入ると、蝦夷島と呼ばれていた北海道周辺でロシア帝国の動きが活発化、江戸幕府は北海道がロシアに奪われることを警戒し、松前藩から蝦夷島の支配権を取り上げた。松前藩はアイヌが和人文化に馴染むことを嫌い、和人の住む松前地とアイヌの住む蝦夷地を区切って往来を制限していたが、幕府はむしろアイヌの和風化を奨励した。松前藩は1821年に蝦夷島に復帰、支配体制も元に戻るが、復領後は藩の規律の乱れもあって商人たちの搾取・虐待がエスカレートし、北海道アイヌはさらなる苦難の道を歩む。一方で松前藩の支配の及ばない千島アイヌはロシア文化の強い影響を受けることになった。また、本州アイヌは(元々少数であったこともあり)津軽藩の和風化政策で百姓に完全に同化した。


幕末、幕府は再度蝦夷地の直轄化に乗り出し、松前藩の支配権は松前地のみに限られた。そして明治の到来とともに和人の北海道開拓が本格化。この頃には虐待と疫病の蔓延で既にアイヌの人口は激減していたが、開拓の進展によって狩猟採集を前提とした生活基盤が失われた。また、政府は同化政策を強力に推し進め、多くのアイヌ文化が消えていった。その状況は1997年のアイヌ新法制定まで続いた。


多くの日本人が農村での生活から離れたように、現代のアイヌの人々もまたその多くがコタンでの伝統的な生活から離れ、普通の近代住宅に移り住んだ。しかし、アイヌ民族の文化・伝統は脈々と受け継がれており、今なお新しいアイヌ文化が彼等の手で創造されている。


アイヌ人設定がある、若しくはアイヌ文化をモチーフにしたキャラクター


なんちゃってアイヌキャラ


アイヌ文化が関係する創作物


関連タグ

北海道 カムイコタン シャクシャイン コㇿポックㇽ 宇梶剛士 ゴールデンカムイ

アイヌ語 アイヌ神話 アイヌ民話 アイヌモシリ カムイ

精霊信仰 アニミズム イオマンテ

日本人和人


  • 金田一京助
    • 言語学者で北海道アイヌ文化研究の第一人者。近代日本にアイヌ文化を紹介し、その研究を開拓した。しかしそれのために同化政策が推進されたという見方もある。

外部リンク

アイヌ - Wikipedia

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