小幡昌盛
おばたまさもり
「甲陽五名臣」の一人・小畠虎盛の次男。
小幡勘兵衛(景憲)は三男。
武田信玄(晴信)に仕え第4次川中島の戦いなどに参加。
その勇猛さから信玄も「鬼」と評したという。
また上野国の名族である「小幡」姓を名乗ることを信玄に許され、さらに小幡氏からも了承され小畠から小幡に名字が変わった(読みは同じ)。
このため後世、上野小幡氏の小幡憲重・信貞父子と同族扱いされてしまったり、父・虎盛も小幡姓で表記されてしまうことが起こってしまう。
ちなみに虎盛は遠江出身であり上野出身の憲重たちと血縁関係は無く小幡姓を名乗ったこともない。
父の死により信玄直々に海津城副将を任されるが拒否。信玄のそばに仕えたいという
忠誠心が高いといえば聞こえはいいが主君の命令(願い??)を無視したとして
切腹を命じられてしまう。この時は諏訪(武田)勝頼やほかの家臣がとりなして事なきを得る。
信玄死後は勝頼に仕えた。
1582年、武田氏が劣勢になっていく中、病を発症。
長くないと感じたのか暇乞いをだし、その数日後に死去。49歳だった。
昌盛の死因はとある病気の(今のところ)最古の記録とされている。
昌盛は勝頼が訪れた善光寺前で篭に乗って参り暇を乞うたという。
記録では昨年の霜月(11月のこと)からの病で満足にたてず篭に乗って参ったこと
この時の様子は異様に膨れた腹をしていたらしくすでに末期だったのだ。
勝頼はその姿を悲しんだといい暇乞いを受け入れた。
その3日後、自身の死を悟ったように暇乞いをした昌盛は死去。
その5日後には武田氏も滅亡した。
彼の無念は数百年の時を迎え1996年に収まった。昌盛死去から414年目の年だった。
(ただし、彼の死以前を含めると最悪1万年前に甲府盆地に人が住み始めたころまでさかのぼる)
病が消えた今の甲斐を彼は天からどう見てるのか。
安堵の息をしてほかの地方病犠牲者やかつての仲間とともに見守っているのだろうか・・。
武田家所属武力6、統率4の1,5コストの槍足軽。
かつては防柵持ちであったが、統率が3から4になった代わりに防柵は特技から削除された。
計略は士気4の『不屈の構え』
自己強化系で武力が4上昇して、体力が40%回復する。
戦場を掻き回すような強さや計略は持っていないが、非常にコスパの良い優秀な槍であり、具体的には
・最初期からいて、排出されるカードでは1番レア度が低いので、手にいれやすい。
・1,5コスト内の槍足軽で武力6は最大の値であり、武田家では彼と出浦守清しかおらず、出浦は忍という特徴上、扱いが難しいに対し、昌盛はシンプルな性能で使いやすい
・前述の出浦はエラッタされて武力が5であった時期が長く続いた為、事実上昌盛が1,5コストの槍足軽では最高の武力値を持っていた。
・武田家は槍足軽が前に出て騎馬の突撃を支えるという戦法が基本であり、槍足軽の需要が高い武家の所属であったこと
・計略は攻城が取れそうな時に粘り、味方を自城に帰還させるの時間稼ぎ、士気あふれになりそうなのでとりあえずの強化、終盤の自城の防衛など様々な場面で使える使い勝手の良さ
・1,5コストとコストが低いので、戦場でメインとなる武将を入れた後に残りコストで採用しやすい
といった、非常に使い勝手の良い武将である。
なお、余談だが昌盛が非常にテンションの高い武将とキャラ付けされているのに対して、父である虎盛が冷静な知将な知将とキャラ付けされているので比べてみると面白いかもしれない。
『いぇーい!ぶつかっていくぜ!』