概要
信濃北部の埴科郡出浦を本拠とする国衆の一人。名前については一般に広く知られている「昌相」の他、「盛清」の名も用いていた事が確認されている。
出浦氏は同じく信濃北部に勢力を有し、祖先を同じくする信濃村上氏に代々家臣として仕えてきたが、16世紀中頃に甲斐の武田晴信と度重なる抗争を繰り広げた末に、当時の当主であった村上義清が越後へと追われると、昌相はこれに従わず武田氏に付く事を選択している。
武田家中における昌相の事績については不明な部分も多いが、晴信が組織した三ツ者(甲州透破とも)、即ち忍者を統率する立場にあったと見られている。また昌相と同時期に、武田家中で忍び衆の指揮に当たっていた富田郷左衛門は、一説によれば昌相の変名の一つであったとも言われている。
武田氏にはその後勝頼の代まで仕え、その滅亡後は織田信長より新たに信濃統治を任された森長可の寄騎となる。しかしそれも長くは続かず、本能寺の変を経て政情不安の度合いを色濃くした信濃より、長可が撤退を余儀なくされた際には、彼に配下として附けられていた信濃国衆の大半が彼を見限り、一揆を組んで殲滅に及ぼうとする有様であった。
このような状況下にあって、昌相は川中島から美濃まで長可の護衛として同行し、その撤退に協力。この時長可からは、感謝の印として脇差を与えられている。
甲信地方が織田の影響下から離れ、徳川・北条・上杉の間での当地を巡る抗争(天正壬午の乱)も一段落した後、天正11年(1583年)より同じ武田氏遺臣の信濃国衆・真田昌幸に仕えるようになる。真田家臣としては上州吾妻の奉行、更級の上平城主、そして昌幸嫡男の信幸(信之)が領する岩櫃城の城代を歴任。行政官として検地や税制、裁判等の内政分野で手腕を発揮し晩年まで真田家を支えた。
また、武田家臣の頃と同様に吾妻忍び衆の統率者も努めていたようで、合戦においても小田原征伐時の忍城攻めにおいて戦功があったと伝わる。江戸期に入ってからも、松代藩主となった信之に引き続き仕え、武者奉行も務めた後吾妻にて余生を送った。昌相の没後も、子の幸久(幸吉)も含め子孫らが松代藩の家老を務めている。