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概要

山之手殿(やまのてどの)、寒松院(かんしょういん)とも。

「表裏比興の者」と評された真田昌幸の妻(正室)。子には村松殿小山田茂誠室)、真田信幸(信之)真田信繁(幸村)がいる。

出自については諸説あり、真田家と同じく武田家臣である宇多頼忠遠山右馬助のいずれかの娘といわれている。昌幸が配流された高野山に遺る過去帳には「武田信玄公養女」ともある。

また、清華家(最上位から2番目の公家)の娘もしくは侍女という説もあるが、当時は地方の下級武士の身分だった真田家が公家衆と関連付けること自体が難しいと否定されている。

昌幸が武田氏に仕えていた当時は新府城に身を置いており、天正10年(1582年)織田信長による甲州征伐で武田が滅亡した際には九死に一生を得て新府城から脱出し、真田の領地である上田に帰還した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い直前の石田三成の作戦により大名の妻子が人質にとられ、山手殿も当時大坂にいたため大坂城に抑留される。ただし、真田家と三成との親交が深かったこともあり三成から昌幸宛に「御内儀も大坂へ入りましたが何事もありません。宇多頼忠父子も当城(佐和山城)に来ています。」という旨の書状を送っている。後に真田家臣・河原綱家の機転により逃れて上田に帰還した。

※ ここで三成がわざわざ宇多氏の名を挙げていることから山手殿は宇多頼忠の娘という説がとくに有力視されている(三成の妻・皎月院は頼忠の娘(山手殿の妹)とされ、三成にとって山手殿は義理の姉にあたる)、真田家自身が公式系図でそう書くのに何の不都合もなかったはずで、客観的理由であり得ない菊亭氏説としているのは、徳川幕府体制下で悪人とされた三成と縁戚であることを隠したかったからであり、宇多氏説が最も妥当である(石田三成と真田家が深い関係にあった事は事実である)。

西軍の敗北後、夫・昌幸と次男・信繁は家臣16名と共に九度山に幽閉されるが、山手殿は長男・信之に引き取られた。以降は出家寒松院と号し、没年まで大輪寺で生活する。

慶長18年(1613年)6月3日に死去。

創作

NHK大河ドラマ真田丸

演:高畑淳子

本作では「薫」名義で登場。

家族想いである一方で、昌幸や信繁とは対照的に余計な小細工を嫌っており、ときには二人が何かにつけて策を講じることに怒りを見せることも。また、過去に人質としての苦労を経験したこともあってか、政策として家族の誰かが他家に人質に送られることにも断固として拒否していた。

当初は公家の生まれで京出身の元お嬢様とされ、息子の信繁や信之もそれを信じ込んでいたが、後にとある一件で太閤・豊臣秀次を匿った際、彼の親族に薫の血縁者(と言い張っていた人物)がいたことで矛盾が露見し、実際はただの侍女だったことが明かされる。

真田魂

主人公・昌幸の妻。

金髪がまぶしい美女であり、昌幸曰く乳と腰の括れが素晴らしいことはすぐわかるらしい。のんびりした性格だが奇人変人揃いの真田の男たち(+長女・村松)には躊躇なくツッコむ。婦徳に富むが運動音痴

関連タグ

戦国時代

真田昌幸(夫) 武田信玄(養父)

皎月院(一説には妹) 石田三成(一説には義理の弟)

村松殿(長女) 真田信之(長男) 真田信繁(次男)

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  • 願い。

    昌幸夫婦の若いころの話。前半微エロ(R15くらい)です。苦手な方は注意してください。 某赤い次男の幼少期も出ます。山手殿の名前は芙美(ふみ)さんです。 全編妄想です。
  • 未だ、此処にあらず。

    真田(父)夫婦。まだ信之が山手殿のお腹にいた頃の話です。うちの山手殿は芙美(ふみ)さんです(勝手につけました)。
  • 【幸佐】母の日【腐向け】

    三日遅れですが(あはははは)、母の日ネタ。 幸佐で母の日は、お約束だろうと。 因みに戦国時代に母の日がなかったであろうことは、十分承知の上です。 文中の『なでしこの花』は、いわずもがな、カーネーションです。 カーネーションの和名を、見つけられなかったんだ……〔遠い目)。 あ、捏造信幸さまと山手殿が出てきます。

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