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概要編集

第80代内閣総理大臣。最終所属は民主党で総理在任時は新生党


生い立ち編集

1935年8月24日、衆議院議員だった羽田武嗣郎の息子に生まれ、朝日新聞記者だった父と同じく新聞記者を志したが入社試験で受からず父のツテでバス会社に入社し観光ツアー等の企画を担当した。1963年に父が急病で倒れたため、父の後援会の懇願もあり後継となる。1969年に衆議院議員選挙で当選しデビュー。


政党変更と小沢一郎編集

元は自由民主党に所属し、田中角栄(田中派)や竹下登(竹下派)の下で同党幹事長大蔵大臣を務めるなど重役を歴任した。しかし、佐川急便からのヤミ献金(佐川急便事件)に端を発する竹下派の分裂で小沢一郎などと共に自民党を離党し、新生党を立ち上げた。新生党は新党ブームの波に乗り、最盛期には衆議院で55議席を獲得するなど躍進ぶりを見せた。自民党が結党以来初めて下野した際の非自民・非共産8党による新内閣立ち上げ時には総理候補とされたが、結局は副総理外務大臣に収まり、総理の座は日本新党代表の細川護煕に譲った。しかし細川は組閣後1年もせずに金銭問題で退陣に追い込まれ、その後任として結局総理となった。


羽田内閣編集

しかし、羽田内閣の船出は社会党の連立政権離脱による与党の少数化により非常に厳しいものとなってしまい、結局自民党から提出された内閣不信任案を否決できず総辞職した。在任期間は歴代ワースト2位記録となる64日であった。

その間にやった実績は、国民の声を直接聞き込むために「平成の目安箱」と称して官邸にFAXを設置したこと。また、公共料金の年内値上げ凍結などがある。


退陣後編集

退陣後は党の解散・結成・分裂に巻き込まれ数々の党を渡り歩いたが最終的には民主党に落ち着く事になり、2012年の政界引退まで在籍した。なお、引退後も顧問として党には残っており、民進党になっても亡くなるまで顧問を務めていた。


死去編集

2017年8月28日、老衰のため死去した。享年83(満82歳没)。羽田のライバルでもあり最大の政友,小沢一郎が別れの会にて悼辞を述べている。


家族関係編集

息子の羽田雄一郎は同じく民主党(後に民進党)に所属し、議員として活動していたが父の死から約3年後の2020年に新型コロナウイルスに感染して亡くなってしまった。(但し選挙区は異なる)。


省エネスーツ編集

羽田は大平正芳内閣が提唱した省エネルック政策の一つ『省エネスーツ』を推奨した人物として有名である。省エネスーツとは半袖のスーツのことで、羽田はこの服装を好み事あるごとに着用していた。ただ、この政策やスーツはあまり浸透せず、クールビズが登場すると完全に廃れてしまった。



関連項目編集

政治家 内閣総理大臣 民主党 小沢一郎


細川護煕(79代/前任)→羽田孜→村山富市(81代/後任)

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