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概要編集

宇野宗佑とは、日本の政治家・第75代内閣総理大臣自由民主党所属。


経歴編集

1922年、滋賀県出身。外交官を目指していたが、戦時中の学徒出陣により戦地へ。1945年から戦後2年間の成人時代をシベリア抑留の被害に遭って過ごした。


1960年の池田内閣の際に初当選以降、衆議院議員として閣僚などを歴任した後、消費税導入とリクルート事件による支持率急降下で辞職した竹下登の後任として、1989年(平成元年)6月に自民党総裁及び総理大臣となった。


総理・総裁に就任すると、宇野は先代総理リクルート事件絡みの負のイメージを払拭するため、閣僚からリクルート事件関係者を排除するなどクリーンな内閣をアピールした。

だが、就任してわずか3日目に自身の女性スキャンダルが発覚してしまった(関連して現在でも指三本という言葉とともに宇野は記憶されている)。結果、直後の参議院議員選挙では大敗北し、就任からわずか約2ヶ月で退陣に追い込まれた。この在任記録は歴代でもワースト4位である。

辞任会見の際に発言した「明鏡止水」のワードは流行語にもノミネートされた。


短い政権に終わったことを惜しむコメントも多くあった。

親交があった石原慎太郎からは「もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」と評価するなど、短い在任に終わった宇野政権を惜しみ、鈴木宗男からも「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と語るなど、総理大臣として結果を残せなかったとはいえ政治家としての評価は決して低くはない。


一方で就任翌日、中国で天安門事件が発生した時に中国を孤立化させるべきでないと主張し、経済制裁をとらなかったことは現在でも議論となっている。


退任後は、自民党の最高顧問に就任するも1996年に政界を引退。体調不良による通院を繰り返し、1998年5月19日に肺癌により76歳で死去した。


宇野は平成時代に総理を務めた人物としては、最初の物故者となった。


関連項目編集

政治 政治家 平成の総理大臣 竹下登 中曽根康弘

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