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中曽根康弘

なかそねやすひろ

日本の政治家・第71~73代内閣総理大臣。大正7(1918)年5月27日生、令和元(2019)年11月29日没。叙・従一位大勲位。
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自民党所属の元首相・国会議員。最後の“昭和時代の内閣総理大臣”であり、昭和時代の首相として最後まで存命であった人物である。


内務省退官後、昭和22年から平成13年までの長きにわたり衆議院議員をつとめ、運輸大臣や防衛庁長官、通産大臣などの要職を歴任する。昭和57年に内閣総理大臣に着任し、1980年代の日本に4年11カ月にのぼる長期政権を築いた。


首相在任時編集

三次にわたって内閣を組織し、首相在任期間1806日(歴代六位)に及ぶ。在任中は「戦後政治の総決算」を掲げ、行政改革に傾倒し、国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・専売公社(現JTおよび塩事業センター)の三公社の民営化を実現した。その政治手法は従来の田中派的調整政治とは一線を画すトップダウン型のもので、強力なリーダーシップが高い支持につながった。


教育政策では、国際問題化した歴史教科書問題に中国の立場に配慮した「近隣諸国条項」を追加することで一応の決着をつけ、ゆとり教育の導入をはかった。


経済・外交政策は常にアメリカのレーガン政権と歩調を合わせたもので、「ヤス(中曽根康弘)はアメリカの使い走り」と揶揄されるほどだった。アメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、アメリカ製品の輸入促進を国民に訴える。アメリカの要望に応えた内需拡大のための過度の金融緩和、そして容積率の大幅緩和・リゾート法制定といった一連の政策は、狂乱地価と株価暴騰によるバブル景気を引き起こすことになった。


「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」とをついてまでゴリ押ししたせいで内閣瓦解につながった売上税は、後任の竹下登内閣で消費税として実現した。


意外なことだが、議員になりたての若かりし頃は戦前の勲章と褒章の復活に反対であった。自身が加齢していくにつれ、考えを変えたらしく、自身が勲章を叙勲することになった。また、世に知られていないが、自身に従軍経験があった故か、在任中に日本軍の名誉勲章であった金鵄勲章の名誉回復を認め、公の場での佩用を許可している。これは自身が短期間であるが、海軍主計将校であったからだと言われている。


若かりし頃は内務省官僚でもあったのと、海軍主計少佐であった軍歴から、防衛庁長官を勤めた際には、当時の防衛庁で絶対的権力を握っていた軍縮・軽軍備派の内務省時代の先輩であった官僚に引導を渡し、現代に繋がる拡充と装備充実路線の礎を築いたという功績も持つ。2021年に引退したF-4を空自が導入できたのは、彼が防衛庁の最大派閥であった軽軍備派を一掃した影響によるものである事から、元軍人であった故に、国力に見合った防衛力の整備には積極的であったことがわかる。


人物像編集

核武装論者であった中曽根は、若手政治家時代、日本への原子力発電の導入に大きく貢献している。


政治的主張は典型的タカ派であるが、中華人民共和国との融和を重視し、中国の抗議に応じて靖国神社の参拝を中止。先の大戦についての歴史認識については「帝国主義による侵略戦争であった」という見解を見せている。


その政治スタンスから批判的な勢力からは「風見鶏」とも揶揄されるが、中曽根本人はその評価を意に介さず、政治の世界に風見鶏は必要だ、と言っている。


日本の地位向上のための再軍備、若かりし頃からの悲願であった内務省の復活を模索し続けたが、生存中に実現する事はなかった。しかしながら、内務省の血脈は総務省に受け継がれ、自衛隊は人員不足を抱えつつも、先進国としては最高レベルの軍備を持つに至った。


平成9(1997)年春の叙勲において、大勲位菊花大綬章に叙される。存命中にこの勲章を授かるのは、佐藤栄作元首相以来25年ぶりであった。


小泉純一郎によって政界引退(議員辞職)を勧告され、宮沢喜一共々、平成15年衆議院議員選挙への出馬を断念する。改憲、東アジア共同体の実現に情熱を燃やしていたが、これらは政治家として実現できなかった。


平成30年5月27日で100歳なり、東久邇宮稔彦王(享年102歳)以来2人目となる100歳に到達した。

主要先進国7ヶ国の首相経験者としても最長寿。長男は自民党所属参議院議員の中曽根弘文。孫は自民党衆議院議員の中曽根康隆(弘文の子)・テレビディレクター兼インディーズタレントの双川正文らで、曾孫も平成29年現在6人ほどいる模様。存命中に孫が議員になるというある意味での大偉業を成し遂げた。


現在でも国会の歴代在任記録56年強は歴代2位(1位は尾崎行雄の約64年)、当選回数20回も歴代2位タイ(1位は尾崎の25回、同列2位は同じ中曽根派の重鎮原健三郎)であるが、中曽根は小選挙区導入時は選挙区地盤を他人に譲る代わりに元首相として比例区終身1位の確約を経て比例区に転出しており、これが成されていれば平成27年10月の選挙を以て在任記録70年・当選回数26回・在籍時年齢99歳(これも記録上の1位は尾崎の95歳で、原の93歳がこれに続く)の三冠を達成していた。このことはアメリカの長寿研究機関ジェロントロジー・リサーチグループも公表している。

しかし、自身以来久方ぶりに自民党総裁を複数期に渡って任期満了まで務めた小泉純一郎が比例定年制の厳格導入を主張して中曽根に退陣を迫り、終身1位は3回目にして反故とされ、引退を余儀なくされた。

こうした経緯からか、100歳を超えても講演などで元気な姿を見せることがあった。


訃報編集

令和元年11月29日に101歳6か月で死去した。東久邇宮稔彦王が持つ102歳1か月の長寿記録にあと5か月及ばなかった。中曽根の死去により、また、2019年月11月29日時点で、大正生まれの元首相で存命なのは、村山富市(大正13年生まれ)だけとなった。


同年12月27日付の官報により、逝去日に遡って従一位位階に叙され、同時に最高位勲章である大勲位菊花章頸飾にも叙された。菊花章頸飾の国民への叙勲は上記に同じく佐藤栄作以来であり、44年ぶり(今上陛下の佩用を含めれば令和で二度目)。戦後に限れば史上三人目。

また従一位への叙位は東久邇宮稔彦王以来約30年ぶり。令和では初となる昇叙(太平洋戦争中の従六位より)を経験しており、生前より位階を持つ者及び、昭和期の総理大臣経験者も、これで全員が鬼籍に入ったことになる。


ポップカルチャー編集

椎名林檎の楽曲に中曽根元総理をテーマにした「海軍ポリティシャン」というDEMO曲がある。タイトルは彼が海軍将校であったことに由来する。


関連タグ編集

自民党 ロナルド・レーガン


三角大福中:佐藤栄作の後の総裁選を争い、長年自民党の中心にいた、三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫と中曽根のこと。


青葉(重巡洋艦) 大日本帝国海軍の重巡洋艦。海軍時代、中尉として配属されており、訓練を受けた。平成24年には青葉の終焉の地である呉市に建立された碑の碑文の揮亳も行っている。


江田島平八:中曽根とは東京帝大(現在の東京大学)の同級生という設定である。


井上真樹夫:同じく2019年11月29日に亡くなられた著名人

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