概要
永禄7年(1564年)、北条氏康の六女として誕生。母は松田殿(北条家臣・松田憲秀の娘)。本名については記録に残されていないが、法名は桂林院であることが明らかにされている。
天正3年(1575年)5月21日、甲斐の武田勝頼は長篠の戦いにて織田・徳川連合軍に対して敗北。この敗北を前に勝頼は、外交の再建に着手して上杉謙信と和睦(甲越和与)し、さらに以前からの北条氏政(北条夫人の兄)との同盟(甲相同盟)の強化にも取り組んだ。その一環として、氏政の元から継室として勝頼に嫁いだのが、他ならぬ北条夫人であった。
勝頼は上杉・北条と友好関係を築いたことで、対織田の一翼を担うとともに、織田と協調関係にあった徳川との戦いに全力を注げるようになった。
天正6年(1578年)、上杉謙信が他界するとその養子の一人である上杉景勝が上杉家を継ぐ。ところが、程なくして景勝と一部の家臣たちとの確執をきっかけに、彼らが景勝の義兄弟にして北条夫人の兄・上杉景虎(北条三郎)を担ぎ上げ、景勝に対して反乱(御館の乱)を起こす。
北条夫人の兄・氏政は勝頼に対して弟・景虎を救援するように要請するも、氏政本人はこの時期佐竹との戦に忙殺されており、自ら景虎を助けに行くことが出来なかった。こうした氏政の姿勢に対し、勝頼は不信感を抱くようになる。
前述した通り、勝頼は上杉・北条の両方とも友好関係を結んでおり、また景勝側からの働きかけもあって、景勝と景虎の和睦を仲介することで、上杉と北条の面子を保った。しかしこれで事が穏便に収まるはずもなく、程なく景勝・景虎の和平は破綻し、御館の乱は景虎の自害という形で幕引きとなった。
乱の後、勝頼と景勝との間で正式に同盟(甲越同盟)が締結され、勝頼の異母妹・菊姫が景勝に嫁いで関係が強化される一方、前述の要請にも拘らず景虎が死に追いやられた事から、北条氏政は甲相同盟の手切れを宣言。さらに勝頼と敵対する徳川家康や、織田信長とも組む形で武田への対立姿勢を露わにした。
このように実家と婚家が敵対関係に転ずる格好となったものの、以降も北条夫人は勝頼の継室のまま武田家中に留まり続けた。
天正10年(1582年)、織田・徳川・北条による多方面からの侵攻を受けた勝頼は、北条夫人や嫡男・武田信勝(勝頼の正室・龍勝院の子)を連れて本拠である新府城を退去するも、傘下の国人たちの裏切りなどもあって追い詰められた末、天目山にて自害を遂げた。そして北条夫人もまた、勝頼たちと運命を共にしたのである。享年19。
このように悲劇的な最期を遂げた北条夫人であるが、武田氏滅亡の半月ほど前には勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納。大願成就の暁には、勝頼と二人揃って奉仕をするとまで記すなど、夫である勝頼とは最期まで良好な仲であった事が窺える。
「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」(辞世の句)