武田家臣時代
天文17年(1548年)、武田信玄の家臣・芦田信守の子として誕生。
しかし勝頼が長篠の戦いで敗北すると、徳川軍が二俣城に攻めてくる。信守と信蕃は二俣城に籠城し、僅かな手勢で防衛した。しかし、信守がその最中に病死。その後信蕃が守将となり、弟・信幸と共に籠城を続行。徳川軍は兵糧攻めしかできなかったが、半年もの攻防の末、徳川方から城兵全員を助命するという条件での開城を求められ、主君・勝頼からも甲斐に撤退するように命令されたため、城内をくまなく清掃し、整然と開城した。この行動に徳川家康は感心した。その後、二俣城には大久保忠世が入城した。
天正10年(1582年)に織田信長が甲州征伐を開始し、武田領に侵攻。それに呼応した徳川軍も田中城を攻撃したが、信蕃は堅固に備えを立てて落城の気配も見せず、徳川家臣・成瀬正一の開城要請も拒否した。
しかし、勝頼が天目山にて自害したことを聞くと降伏し、田中城を(敢えて二俣城と同じく)大久保忠世に明け渡した。
徳川家臣時代
その後、本能寺の変により織田信長・信忠親子が横死。これに伴い、旧武田領は(織田軍が撤退したため)空白地帯になった。
そして徳川と北条の同盟が破棄され、天正壬午の乱が勃発。信蕃は徳川家康に仕え、北条軍を相手にゲリラ戦を展開し、北条軍の補給路を遮断することに成功。さらに北条方についていた真田昌幸などの武将たちを調略する。
その後、徳川と北条は和睦。
後も家康に重用され、大井行吉が籠る岩尾城を攻略しようとするが、天正11年2月23日(1583年4月15日)、弟・信幸と共に討ち死にした。
信蕃の子孫
信蕃の死を惜しんだ家康は、信蕃の嫡男・竹福丸に松平の姓と康の一字を与え、松平康国として元服させ、大久保忠世を後見人として付け、父の遺領・小諸城を相続させるという厚遇をした。
ちなみに康国の初陣は、それから2年後、徳川を(沼田城を北条に渡すよう強要させられたため)裏切った真田昌幸を相手に戦った第一次上田合戦であり、敗北した。
その後、康国が小田原征伐にて戦死した後、信蕃の次男・松平康勝(彼も家康から「康」の一字を拝領)が跡を継ぎ、子孫は越前松平家に仕えた。