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筒井順慶

つついじゅんけい

筒井順慶とは、近畿地方の戦国武将。大和の有力国人・筒井氏の家督を幼くして継ぎ、当地への影響力を強めていた松永久秀とは多年に亘って干戈を交えた。教養人としての一面や、「洞ヶ峠」の故事の由来となった事などでも知られる。(1549年-1584年)
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概要編集

生年天文18年3月3日(1549年3月31日)
没年天正12年8月11日(1584年9月15日)
出身大和国
領国(同上)

室町時代末期~安土桃山時代にかけて、大和を中心に勢力を有していた戦国武将。順慶の名乗りは後述の通り得度してからの事で、それ以前は藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)の名乗りを用いていた。

元々僧籍にあった事から仏教を厚く信仰するとともに、茶道和歌を愛する文化人としても知られている。文化を愛し、晩年に胃を患うなど、戦国武将には似つかわしくない繊細な部分が、最終的に彼の寿命を縮める結果となったと見られている。


その一方で、幾度とない松永久秀との抗争に明け暮れ、家臣たちに見限られようとも大和一国と筒井氏の安寧のために奮起し続けた忍耐力、主君に忠義を尽くす忠誠心、反撃の期を見逃さず攻め手に転じられる気概の強さ、失敗してもただでは起きないしぶとさなど、戦国を生き抜くには十二分な度量も備えていたようである。むしろ、あの「戦国の梟雄」と生まれながらに戦い続ける運命を背負い、最終的にそれに勝った順慶の精神力は、並のものではなかったはずである。


後世の小説などでは、世捨て人のような超然とした精神の持ち主として描かれる事も多い。


生涯編集

家督相続と松永氏との対立編集

筒井氏は元々興福寺一乗院の衆徒の出であり、応仁・文明の乱などの戦乱を通して大和国内きっての武士団にまで成長、父である筒井順昭の代には当時畿内の実力者であった木沢長政と誼を通じてさらに勢力を拡大し、大和一国をほぼ領する戦国大名となっていた。

順慶が産まれたのは、正に筒井氏にとっては最盛期とも言える頃であったが、その隆盛ぶりに早くも陰りが見え始めた。誕生の同年、父である筒井順昭は病を患い比叡山へと隠居、そのまま翌天文19年(1550年)に28歳の若さで他界。父の病没に伴い、順慶は叔父の筒井順政らの後見の元、わずか2歳で家督を相続する事となるが、それは順慶の苦難に満ちた前半生の幕開けをも意味していた。


前述の通り、筒井氏は木沢長政らとの同盟を背景に戦国大名として台頭していたが、その長政と敵対しこれを打ち破っていた三好長慶は、長政の影響力をも脱しさらなる伸長を見せていた筒井氏の勢力を警戒視し、これを抑えるべく大和へと一人の武将を派遣する。それが後々まで順慶の最大の敵となる、松永久秀その人であった。

永禄2年(1559年)より始まった久秀の大和侵攻は、それに対する備えが万全ではなかった筒井氏を脅威に晒す格好となった。久秀はまず信貴山城・多聞山城を拠点として筒井城を牽制しつつ、筒井氏傘下の国人衆を攻略する事で、筒井氏本体の孤立化・弱体化を図ったと見られる。その目論見通り、3年後の永禄5年(1562年)には父の代より協力関係にあった十市氏の離反、さらに永禄7年(1564年)の順政の急死を経て、筒井氏を取り巻く状況は悪化の一途を辿っていった。

こうして筒井氏の基盤が揺らぎつつある中、永禄8年(1565年)に発生した足利義輝暗殺事件(永禄の変)を経て、久秀と三好三人衆が敵対関係に転ずると、これを久秀への反撃の好機と見た順慶は三好三人衆とその主君・三好義継と結託、反松永軍の一翼を担った。しかしこれに対する久秀の反応は驚くべく程早く、11月には久秀からの奇襲に遭って居城・筒井城を奪取されてしまう。辛くも布施氏の元へ逃れた順慶は、その後しばらく雌伏の時を過ごす事を余儀なくされた。


筒井城争奪戦編集

久秀への反攻と筒井城奪還への動きは、早くも翌永禄9年(1566年)より本格化した。まずは先の筒井城陥落の折に離反した高田氏を攻撃、さらに三好三人衆との連携を強化し、筒井城へと兵糧を運び込もうとする松永軍を度々脅かした。

情勢が筒井・三好三人衆側優勢に傾く中、久秀は摂津の国人衆や畠山氏と組んで三人衆の本拠・を包囲し形勢逆転を図ろうとするが、逆に松永軍が三好軍の包囲に遭い、和議を結ばざるを得ない状況に追い込まれてしまった。そしてこの間隙を逃さず、順慶は堺出兵によって手薄となっていた筒井城への攻勢を強め、6月には遂にこれを奪還せしめたのである。

筒井城奪還の後、順慶は春日大社に参詣し、宗慶大僧都を戒師として得度し陽舜房順慶(ようしゅんぼうじゅんけい)と名乗るようになる。以降も久秀との対峙は続き、翌永禄10年(1567年)には筒井・三好三人衆の連合軍と松永軍が東大寺を中心に市街戦を展開(東大寺大仏殿の戦い)。この時は松永軍に敗れるも、その後久秀が本拠としていた信貴山城を陥落させるなど、戦況は筒井・三好三人衆側有利のまま推移していた。


しかし永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の途につくと、大和における筒井氏優位な状況も暗転する事となる。久秀がいち早く信長と誼を交わし、大和一国を「切り取り次第」とする事を取り付ける一方、久秀打倒に拘泥して情勢を見誤った順慶は劣勢に立たされ、家中からも離反者が発生。そして義昭・信長の上洛から間もない10月には再び筒井城から追われる羽目になった。

その後、福住城(現・天理市)に潜伏して反撃の機会を待った順慶は、やがて敵方の内情の混乱の隙を突いて十市城・窪之庄城を奪回し、久秀への反攻に備えた。元亀2年(1571年)には筒井派の民衆の支援も得て辰市城を築城、これを最前線基地として松永・三好連合軍と大規模な合戦を展開するに至る。

この時筒井軍は連合軍に多大な損害を与え、筒井城を再度奪還せしめただけにとどまらず、久秀の重要拠点である多聞城と信貴山城の導線を寸断する事にも成功する。家臣の一人で、後に蒲生氏郷石田三成にも仕えた島清興(左近)が名を挙げるようになったのもこの頃の事であったとされる。


信長への臣従編集

このように久秀に対し再び優位に立つ中、同年10月に順慶は明智光秀の斡旋により信長へと臣従し、程なくして久秀とも和睦するに至っている。一方で、こうした動きは久秀の幕府からの離反という事態を招き、後に久秀が信長とも対立するようになると、順慶は信長傘下という立場で久秀と対峙し、松永方の私部城(交野城)を陥落させている。

室町幕府滅亡後の天正3年(1575年)には信長の娘(妹とも)を妻に迎え、同時期に大和守護に任命された原田直政(塙直政)の与力として、長篠の戦いや越前一向一揆攻略、本願寺攻めなどにも参戦。翌年直政が天王寺合戦で戦死すると、その後を受けて大和一国の支配を任される事となる。信長への臣従斡旋など、予てより関係を構築していた明智光秀の与力に付けられたのもこの頃である。

天正5年(1577年)、幕府滅亡の後信長に臣従していた久秀が反旗を翻すと、順慶は久秀の篭もる信貴山城攻めの先鋒を務め、その陥落に貢献した(信貴山城の戦い)。この落城の後、久秀の遺体を順慶が回収し、北葛城の達磨寺に葬ったと伝わっている。久秀の死によって大和平定も果たされた後、播磨平定や天正伊賀の乱など、信長による数々の軍事行動に従軍する一方で、それまでの筒井城から大和郡山城へと本拠を移転。またこの時信長からの命を受け、大和郡山城を除く国内の諸城を破却してもいる。


本能寺の変編集

こうして信長の元で、大和一国の主としての立場を確立していた順慶であったが、天正10年(1582年)に発生した本能寺の変で信長が明智光秀によって討たれた事により、再び順慶を取り巻く情勢も不穏なものへと転じていく。

前述の通り、信長傘下入りの際の斡旋をきっかけに縁戚関係にあったのみならず、武辺の多い織田家中において数少ない文化人・知識人として頼られていた事もあり、光秀からは早くも変の直後より味方になるよう誘いが来ていた。

ところがこれに対し、当の順慶は早くから光秀不支持と羽柴秀吉への恭順を決していたらしく、変の直後に池田恒興が順慶の真意を探るべく使者を遣わしたところ、順慶は「光秀は謀反人であり、諸将と同じく討つべきである、味方をする理由はない」と表明し返書を与えていた事が、近年池田家の文書より明らかにされている。

とはいえその後も、光秀からは藤田行政を通してなおも加勢を要請されており、果たして光秀と秀吉が雌雄を決した6月13日、戦場となった山崎の南の洞ヶ峠に順慶は軍を・・・


・・・進める事は遂になかったのである。


この時洞ヶ峠に着陣していたのは、順慶ではなく明智方の軍勢であり、河内を抑えると同時に順慶への牽制・威嚇を企図していたとされる。順慶本人は前述の通り秀吉支持の姿勢を通し、結局最後まで大和から動く事はなかったのだが、この明智方の洞ヶ峠着陣が後々形を変えて喧伝され、順慶に対し「洞ヶ峠で山崎の戦いを傍観していた“日和見者”」という風評被害を生む結果となった。とんだとばっちりもいいところである。

この評判はかなり後まで尾を引き、明治期には勝海舟が幕末の勤皇と佐幕に揺れ動いた土佐の態度を筒井順慶になぞらえて批判している。


ともあれ山崎の戦いが秀吉勝利のうちに終わると、合戦の翌日には秀吉に拝謁。その際参陣の遅さを叱責され、体調を崩すという憂き目に遭ったものの、秀吉家臣として引き続き大和一国を安堵された。しかし翌々年より胃の病に悩まされるようになり、小牧・長久手の戦いにも病身を押して参戦した後、故郷に帰って間もなく36年の波乱の生涯に幕を下ろした。

家督は秀吉の元に人質として送られていた養嗣子・定次が継承、伊賀転封などを経て上野藩を立藩するに至るが、江戸期に入ってから家臣間の対立に端を発した幕府への讒訴により改易。その後の筒井氏は嫡流は断絶したものの、他の支族が東大寺住職や奉行・旗本などとして存続、現在に至るまで家名を保っている。


故事成語編集

  • 洞ヶ峠を決め込む -自分に確たる信念がなく、形勢を見て分のいいほうに付き従う。上記の通り、明智光秀に協力しなかった順慶を嘆く故事。
  • 元の木阿弥 -筒井順昭が病死した時、死を隠すために、順慶が成人するまで、声の似ていた木阿弥という男を寝所に寝かせて外来者を欺き、順慶が成人するや順昭の喪を公表したために、木阿弥は再びもとの身分にもどったという故事。

創作物上の扱い編集

戦国大戦編集

キヒヒ!アンタに力を授けヨウ

筒井さんちの順慶くん

概要編集

「1570魔王上洛す」にて織田家の武将として登場。


僧籍の戦国大名らしく坊主頭に袈裟を纏った姿、そして自身を模した腹話術人形を抱えているのが特徴的なデザインである。

順慶自身は極めておとなしく無口なのだが人形を介した口調は極めてハイテンションで毒舌という奇妙なコンビのような状態になっている。


レアリティC、1,5コスト武力4統率7の鉄砲隊で、特技は無特技→エラッタにより「制圧」を追加された。

計略は士気6『呪縛の術』は敵武将の移動速度を速度0.2倍まで下げる妨害。騎馬隊に対して、対抗手段の乏しい織田家では大変心強い計略。

織田家には同コスト、同兵種、同計略所持の織田信勝がいて、統率の高い順慶は上位互換のような扱いをされていたが、現在は信勝の計略が変更されて差別化されている。

「キヒヒ、楽勝!」「・・・疲れたけどな」


英傑大戦編集

「廻天の五芒星」にて織田家所属する蒼と勢力で参戦。

デザインやキャラクター性は戦国大戦からのリファレンスである。


レアリティN、1.0コスト、武力2、知力7の鉄砲隊で、特技は防柵持ち。

計略は消費士気2の「狙撃戦法」。自身に武力+2して、特技狙撃を付与するというもの。

シンプルな計略だが、計略効果は永続であり、士気が溢れそうな時に打つだけで戦力の底上げに仕えるのが強み。



ラヴヘブン編集

筒井順慶

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。


関連タグ編集

戦国時代 武将 戦国大名

奈良県 興福寺 東大寺


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