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筒井順昭

つついじゅんしょう

筒井順昭とは、近畿地方の戦国武将。興福寺に属する大和国人衆の一人で、畿内の実力者であった木沢長政と組んで勢力を拡大、長政の死後にはその勢力をも駆逐し、筒井氏の最盛期を築いた。(1523年-1550年)
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概要

筒井氏は元々大和土着の土豪の一つであり、鎌倉期以降は興福寺一乗院の衆徒(門跡傘下の実働集団で、武力行動や荘園の管理などに従事した)としても組み込まれ、同じく衆徒であった越智・十市・箸尾などと共に「大和四家」に数えられるようになった。
その後室町期に入ってからの相次ぐ戦乱により、大和守護も務めていた興福寺の勢力が後退すると、筒井氏ら衆徒も次第にその勢力を伸長すると共に、互いに相争うようになっていった。加えて当時の大和は畠山氏や細川氏といった、有力大名の介入を受ける事もしばしばであり、国内の混乱にさらなる拍車をかける結果となった。
こうした混乱状態の打ち続く中で、16世紀前半の当主・筒井順興は一時衰退を余儀なくされていた筒井氏を、周辺の国人との縁戚関係を通じて立て直す事に成功。そしてその嫡男として大永3年(1523年)に生を受けたのが順昭であった。弟に順政順国筒井定次の実父)・順弘筒井定慶・順斎・慶之の父)がいる。

天文年間に入り父から家督を譲られた順昭は、当時畿内にて猛威を奮っていた一向一揆との戦いに直面する事となる。享禄5年(1532年)に興福寺に一揆勢が押し寄せた(天文法華の乱)際、順昭は越智利基や興福寺方と連合して防衛に当たり、十市遠治の援軍もあって吉野にまで一揆勢を押し戻す事に成功している。
この時は、奈良の防衛という目的の元で歩調を合わせていた筒井氏と越智氏であったが、やがて競合する立場にあった越智氏に対抗すべく、順昭は当時畿内にて一大勢力を築きつつあった畠山氏重臣・木沢長政と組んで越智氏を圧迫。さらに十市遠忠(遠治の子、順昭の義弟に当たる)や、長政の主筋である畠山稙長(畠山尾州家当主)とも争った。
その後遠忠とは幕府からの仲裁もあり、天文9年(1540年)に和睦。更に翌々年の天文11年(1542年)、木沢長政が幕府との対立の末、三好長慶らによって討滅されると、順昭はそれまで対立していた稙長に鞍替えし、長政亡き後の木沢氏の勢力を一掃してさらなる勢力拡大に務め、天文15年(1546年)には貝吹山城を陥落させるなど、越智氏との抗争においても依然優位な立場を維持した。

こうして大和一国をほぼ手中に収め、若くして筒井氏の最盛期を現出した順昭であったが、それも束の間天文18年(1549年)に入ると病に悩まされるようになり、突如比叡山にて隠居の身となった。翌天文19年(1550年)に本拠の筒井城に戻るも、病が癒える事なく6月20日(1550年8月2日)に28歳にて早逝した。天然痘、もしくは脳腫瘍が死因であったと見られている。
嫡子・藤勝(後の順慶)はこの時まだ2歳と幼く、その後の数年間は弟の順政、順国らの補佐により引き続き大和の支配を維持するが、やがて大和へと進出してきた松永久秀との対立に直面していく事となる。

故事成句・「元の木阿弥」

死去する直前、順昭は「私に似た人物がおろう。その方を我が息子が成人するまで私の影武者として仕立てよ」(意訳)と命じた。この人物の名は黙阿弥(木阿弥)という人物で盲目であったが順昭に似た人物であったため、筒井家臣団は彼を順昭の代わりとして当主に仕立てた。

当主代行の間、黙阿弥は贅沢な暮らしが出来たが、やがて順慶が正式な家督を継承すると彼は奈良に戻され、元の僧に戻った。この事から、「元の木阿弥」という故事成句が生まれたと伝わっている。

信長の野望

覇王伝PKより初登場。筒井氏の最盛期を築いた事から筒井氏当主の中ではトップのステータスを誇るが、如何せん1550年死去なので信長誕生など限られたシナリオしか登場しない。しかも最新作「創造」のシナリオによっては寿命が数年しかない事もあるので注意が必要である。

ちなみに彼の父・筒井順興も覇王伝PKから登場しており、息子に次ぐ高めのステータスを持っているが、こちらも1535年没なので当主としての活動は短い。

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