概要
長野県内の学校等では何らかの行事を行う際には必ずといっていいほど歌われるほか、信州大学教育学部附属長野小学校では「校歌」として歌われている(ゆえに歌えるか歌えないかで出身小学校がわかるかもしれない)。
1900年に、県内の地理教育の歌として成立。1968年に正式に県歌となった。
他の都道府県歌は県民にも馴染みが薄く、当の都道府県職員ですら知らない場合もあるのに対して、長野県における県歌「信濃の国」はその知名度・浸透度とも隔絶している。今はそれほどでもなくなったが、かつては「県民なら必ず歌える」「むしろ歌えないのはよそ者」等と言われたことすらある……らしい。
1番の「海こそなけれ」、5番に出てくる偉人の知名度が軒並み微妙、6番の信越本線横軽区間が廃止されているなど少し切ないところもある。しかし、後述のとおり1番の当該部分は「海はないけど物は豊かにある」という意味であり、決して切ない意味で歌っているわけではない。
Wikipediaでは英語、韓国語、タイ語のページも作られている。
歌詞と旋律は著作権の保護期間を満了しているため、テクノポップやユーロビートなどさまざまなアレンジが作られており、長野県内のイベントなどで耳にする機会も多い。
歌詞とだいたいの意味
1番
信濃の国は十州に 境連る国にして(信濃国は10の州※に隣接している)
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し(そびえる山はとても高く、流れる川はとても遠くまでいく)
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地(松本・伊那・佐久・善光寺の4つの盆地は肥沃の地である)
海こそなけれ物さわに 万(よろず)足らわぬ事ぞなし(海はなくても物がたくさんあり、足りないものは何もない)
※武蔵、甲斐、駿河、遠江、三河、美濃、飛騨、越中、越後、上野の10州
2番
四方に聳ゆる山々は 御岳乗鞍駒ケ岳(四方にそびえる山々は御岳乗鞍駒ケ岳がある)
浅間は殊(こと)に活火山 いずれも国の鎮(しずめ)なり(浅間はとくに活火山で、どれも国をおさえている)
流れ淀まず行く水は 北に犀川千曲川(絶えず流れていく水は、北に犀川と千曲川)
南に木曽川天竜川 これまた国の要なり(南に木曽川と天竜川がある これもまた国の大事な要素である)
3番
木曽の谷には真木(まき)茂り 諏訪の海には魚多し(木曽谷には木が多く生えており、諏訪湖には魚がたくさんいる)
民の稼ぎも豊かにて 五穀も実らぬ里やある(県民の稼ぎも豊かであり、穀物がどこでも実っている)
しかのみならず桑とりて 蚕養(こがい)の技を打ち開け(それだけではなく、桑を採って養蚕の技術を広げている)
細きよすがも軽からぬ 国の命をつなぐなり(糸は細いものだが大事なものであり、日本国の命運をも担っている)
4番
尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚ノ床(訪れてみたい園原、旅の休息地の寝覚ノ床)
木曽の桟(かけはし)かけし世も 心して行け久米路橋(木曽の桟がかかっている時代でも、久米路橋は注意して渡るべきだ)
来る人多き筑摩(つかま)の湯 月の名に立つの姨捨山(たくさん人が来る浅間の湯、月で有名な姨捨山)
知るき名所と風雅士(みやびよ)が 詩歌に詠みてぞ伝えたる(たくさんの名所を風流な人々が詩歌で読んで広めている)
5番
旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も(旭将軍・義仲も、仁科の五郎信盛も)
春台太宰先生も 象山佐久間先生も(太宰春台先生も、佐久間象山先生も)
皆この国の人にして 文武の誉れ類なく(皆長野県の人で、学問も文芸の業績が優れている)
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きぬ(山がそびえるように世にはばたき、川が流れるように功績は長く残る)
6番
吾妻はやとし日本武尊(やまとたけ) 嘆きたまいし碓井山(かつて日本武尊が妻を亡くしたことを嘆いた碓井山)
穿つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道(いまはトンネルが26本掘られて汽車が走っていて、夢のようにである)
道一筋に学びなば 昔の人には劣るべき(道一筋に勉強をすれば昔の人に劣ることはない)
古来山河の日でたる 国は偉人のある習い(昔から山河に囲まれた長野県では、優秀な人が生まれている)
歌い継がれた理由
「信濃の国」が歌い継がれた理由としては、
・県内の具体的なもの(地理、産業、歴史)を、各地域にわたってできるだけ均等に登場させている。
・作成した時期が古いうえに、地域ナショナリズムが奨励される時期にあたっていた。
・一体意識を持たせないと分裂しかねない。
などが挙げられる。
一方、他の都道府県の歌は、
・ほかの古い県民歌が、県内の対立や占領期の検閲で歌いにくい時期があった(秋田県、山形県など)。
・戦後に作られた県民歌でも、制定時の知事が代替わりした後に県民歌が作り変えられたり存在自体を消されたりした(青森県、兵庫県、愛媛県など)。
・県内の人口比率が高い都市の市歌の方が有名(神奈川県)。
・そもそも県民歌が作られたことがない(大阪府、広島県、大分県)。
といった理由で普及せず、結果的に「信濃の国」だけが有名となった。
(参考:Wikipedia「都道府県民歌」など)
成立の経緯と伝説
信濃国の各地域は前から関係が疎遠で、さらに中信・南信(松本市あたりとそれより南)は、明治時代初期には飛騨国(現在は岐阜県内)と合わせて「筑摩県」という県だった。
が、中信と飛騨の間の交通が冬にほぼ途絶するような有様で(安房トンネルができるまで、冬には自動車が通行できなかった)、筑摩県庁が焼けてしまったということもあり、全国的に小規模な県が統廃合されていたあおりも受けて、中信・南信は同じ信濃国である長野県へ、飛騨は岐阜県へ分割併合された(ちなみに長野県も、廃藩置県より前に、中野県の県庁が焼けてしまったせいで県庁が長野へ移転して「長野県」に改名している)。
そんな事もあり、長野県の各地域はやっぱり関係が疎遠なままで、「同じ信濃国だろ」と言われても、隣接する他県との関係の方が深いのは変わらなかった。さすがにそのままでは長野県庁としても困るわけで、何とか一体感を持ってもらいたい活動の一環が「信濃の国」だったわけである。
そして1876年の(現)長野県誕生から70年余り後、1948年に中信・南信選出の県会議員による分県運動が激化。成立するかと思われたころ、議論している会議場のどこぞから(それ以外の地域からの傍聴者だという)
「しーなーのーの くーにーはー じーーっしゅうううにー」
と言う歌が響き、(リン・ミンメイですか)、みんなで大合唱(していないとも)の末、分割案がうやむやになってしまった。という伝説がある。
その他「敗戦直後この歌を歌って団結し米軍基地の建設を撤廃」「佐久の高校がこの歌で応援されて全国大会の結構なところまで行く」という、熱血マンガの超展開みたいな伝説は結構ある。
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仁科盛信…歌詞内で「信盛」になっているが、実際に「信盛」に改名していた時期もあったらしい。