中村吉右衛門
なかむらきちえもん
屋号は播磨屋。
初代
1886年(明治19年)3月24日生まれ。祖父・初代中村歌六の妻である辰が90歳代まで長生きしたのにあやかり、波野辰次郎(なみの・たつじろう)と名付けられる。父は3代目中村歌六(初代中村時蔵)。父は祖父が70歳の時に生まれたとされており、祖父は辰次郎が生まれた頃にはもちろん鬼籍であった。
弟に3代目中村時蔵、17代目中村勘三郎がいるが、全員母親が違う。長弟は継母の苗字である小川姓を継いだ。末弟は父と妾の間にその晩年に生まれた子であり、彼が9歳の時に父が亡くなってしまったため、その後は事実上彼の師匠役として支えることとなる。なお、辰次郎自身の母親は不詳となっている。
継母からは九代目市川團十郎の元で学ぶよう勧められ、結果として父由来の上方の芸風と九代目團十郎由来の近代的な技術を身に付け、役の幅が広がっている。また継母の父の屋号であった「萬屋吉右衛門」からとって中村吉右衛門の名を創設し(厳密には江戸時代に同名があったが、系譜上は無関係とされる)、生涯この名で通した。父からの歌六の名は継がなかった(のちに弟の孫が継承)が、結果的に吉右衛門の名は歌六の名跡よりも大きなものとなり、播磨屋の中心的な名とされるようになった。
娘が一人生まれたが、後継者として息子に恵まれることは無かった。このため娘には後継ぎとなるべき婿を取るように申し付けたが、彼女が選んだ相手は他家の後継ぎである八代目松本幸四郎(のちの初代松本白鸚)であった。当然結婚に反対するものの、彼女は「男の子を二人は産んで、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と宣言し、その通り二人の男子を授かった。この一人を養子とし、吉右衛門の名を継がせている(後述)。
六代目尾上菊五郎と共に「菊吉」と並び称され、昭和前期の歌舞伎界の頂点に立つ。最晩年の1951年に文化勲章を叙勲。1954年に死去した。
二代目
1944年5月22日生まれ。本名は祖父(養父)である初代と同じ波野辰次郎(なみの・たつじろう)だが、旧姓旧名は藤間久信(ふじま・ひさのぶ)。祖父に養子入りした際に波野姓となり、吉右衛門襲名に伴い名を辰次郎と改めた。
八代目松本幸四郎の次男。二代目松本白鸚は兄、十代目松本幸四郎は甥、松たか子は姪、八代目市川染五郎は大甥にあたる。
1948年、中村萬之助を名乗って初舞台。その後母の父(外祖父)である初代中村吉右衛門の養子となる。1966年に二代目中村吉右衛門を襲名。歌舞伎では、初代と七代目松本幸四郎の当たり役を継承した。
1989年、フジテレビと松竹による鬼平犯科帳(4作目)の、長谷川平蔵を演じるようになる。当たり役となり、お茶の間に広まった。元々1969年から1972年までの1作目を実父の八代目松本幸四郎(作者の池波正太郎も長谷川平蔵のモデルを八代目幸四郎としていた。)が演じており、吉右衛門も平蔵の息子である辰蔵を演じていた。
2011年、人間国宝に認定される。
2013年2月、四女が五代目尾上菊之助と結婚、菊之助の父である七代目尾上菊五郎も人間国宝であることから、人間国宝同士の子女の結婚と話題になった。
2017年、文化功労者に選ばれた。
また、歌舞伎界きっての画家・博学者としても知られており、前出の画業では自ら絵筆をとって個展を開くほどで、これは父である八代目幸四郎が歌舞伎役者・俳優業の傍ら生涯にわたり画業も行っていた影響もある。後出の博学ぶりは『平成教育委員会』、『世界・ふしぎ発見!』、『迷宮美術館』などのクイズ番組で回答者として出演した折にはその博学ぶりでトップ賞を多く獲得するほどだった。また、近年ではNHKテレビのミニ番組タイトルの朗読を行っており、愛称で「漢詩紀行」と呼んでいる。
2021年3月に、東京都内のホテルで倒れて、心肺停止の状態で病院に運ばれた。同年11月28日、心不全のため死去。77歳没。贈正四位・旭日重光章を授与。この栄典は文化勲章に次ぐものである。