市川團十郎
いちかわだんじゅうろう
市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。
屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょうよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。
一方で團十郎の名跡は代々のうち半数が何らかの形で非業の最期を遂げていることでも知られている。
二代目の養子、1711–78。実父は芝居茶屋の和泉屋勘十郎、あるいは二代目團十郎。
初代松本七蔵 → 二代目松本幸四郎 → 四代目市川團十郎 → 二代目松本幸四郎 → 三代目市川海老蔵
五代目の孫で六代目の養子、1791–1859。
初代市川新之助 →(五代目)市川ゑび蔵 → 七代目市川團十郎 → 五代目市川海老蔵 → 成田屋七左衛門(蟄居謹慎時)→ 幡谷重蔵(旅回り)→ 二代目市川白猿
子沢山として知られ、長男と五男がそれぞれ名跡を襲名するなどしたが、反面孫に恵まれず、七代目の系統は市川宗家のものとしては断絶している。
七代目の五男、1838–1903。
三代目河原崎長十郎 → 初代河原崎権十郎 → 七代目河原崎権之助 → 河原崎三升 → 九代目市川團十郎
演劇改良運動の中心を担い、『劇聖』と評された。また、大向こうの掛け声で「九代目」はこの九代目團十郎を指す。写真が残るのはこの九代目からとなる。
九代目の婿養子(長女・二代目市川翠扇の夫)、1882–1956。実父は日本橋履物商で後に東京市議となった稲延利兵衛。30近くになって歌舞伎役者に転向した人物。役者としては大成しなかったが、成田屋に伝わる多くの芸を守り、一門のまとめ役として「繋ぎの役割」に徹した。
堀越福三郎 → 五代目市川三升 → 贈十代目市川團十郎(告別式で追贈)
贈十代目の養子、1909–65。実父は七代目松本幸四郎で、贈十代目に乞われて養子となる。
初代松本金太郎 → 九代目市川高麗蔵 → 九代目市川海老蔵 → 十一代目市川團十郎
元は高麗屋の跡取り・長男であり、松本金太郎から市川高麗蔵を襲名して将来は松本幸四郎を襲名する予定であったが、市川三升(後の贈十代目)の養子となり成田屋の名跡を継ぐ。なお高麗屋・八代目松本幸四郎は弟が襲名した。
海老蔵時代に才能が開花して「海老様」と人気を集めた。1962年に九代目が死去して59年ぶりに團十郎を襲名するも、生来の病弱のために襲名からわずか3年半で没した。(満56歳)
十一代目の長男、1946–2013。
市川夏雄 → 六代目市川新之助 → 十代目市川海老蔵 → 十二代目市川團十郎
まだ若年期に父・十一代目を亡くす苦難に見舞われるが、新之助時代に盟友の四代目尾上菊之助、初代尾上辰之助の3人で「三之助」として脚光を浴びた。1985年に父の死から20年経て團十郎を襲名。晩年は白血病に罹患するなど病と闘いながらの舞台活動だった。(満66歳)
当代。十二代目の長男、1977-
七代目市川新之助 → 十一代目市川海老蔵 → 十三代目市川團十郎
当初2020年5月の襲名を予定していたが、新型コロナウイルスの流行により襲名公演は延期。最終的には2022年10月31日に正式に十三代目を襲名した。