初代
1753–1801
二代目澤村宗十郎の子として江戸に生まれ、澤村田之助として舞台に立つ。父の死後は嵐璃寛に師事。成人を機に三代目澤村宗十郎を襲名する。京都、大阪の上方で活躍した後、江戸に帰って評判の歌舞伎役者となった。しかし、晩年は体調を崩し台詞を忘れるなどの障害に悩まされたという。
二代目
1788–1817
初代澤村田之助の子。父の死後に二代目澤村田之助を襲名。当時は十代半ばで父を失い、後ろ盾もなく大役は貰えないという不遇な時期を送ったが、『娘道成寺』で頭角を現し、名古屋への旅周りなどの苦節を経てようやく役者としての地位を確立する。江戸でも評判となったが、江戸中村座の顔見世に出演中、突如として切腹未遂を起こす。これに関しては原因が分からないまま、その時の傷が元で死去した。
三代目
1845–78
五代目澤村宗十郎として江戸に生まれる。天才子役として評判を集め、15歳で三代目澤村田之助を襲名。翌年には立女形を務める。美貌と実力によって人気を博し、田之助髷、田之助襟、田之助下駄など、その名を冠した商品が出回るほどだった。
しかし、1862年『紅皿欠皿』の舞台で宙づりの演技中に落下、そのときの負傷から四肢が壊死してしまう。その後は壊死した箇所を切断、義足で舞台に立ったが病状は年々悪化。最終的には膝から下の両足、右の手首から先、左手の小指以外の指をことごとく失う。それでもなお舞台に立ち続け、舞踊ができないという致命的な欠点を妖艶な演技で補い、女形として成功を収めた。明治5年に引退するも芝居への意欲は変わらず、澤村座を開場して舞台復帰した。結局この澤村座は失敗に終わるが、以後は上方を中心に役者としての活動を再開する。しかし、病の更なる悪化に伴って精神に変調を来たし、明治11年に33歳の若さで死去した。
性格は勝ち気で我が儘な上に自惚れが強く、周囲と頻繁にトラブルを起こしていた。しかし、芝居の才能と熱意には尋常ならざるものがあり、早世しなければ関西歌舞伎の一時代を築いて、九代目市川團十郞、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らと並ぶ役者になったであろうと評されている。
漫画JINに主要人物の一人として登場する。
四代目
1857–99
三代目澤村田之助の門弟で、後に養子となった。養父の死後、四代目澤村田之助を襲名するも、病弱だったために大成できずに早世した。
五代目
1902–68
七代目澤村宗十郎の次男。東京に生まれ。三代目澤村由次郎を襲名し、東京歌舞伎座の『江戸育御祭佐七』の魚屋の小僧で初舞台。その後、帝国劇場で五代目澤村田之助を襲名。二枚目の和事や若女形等幅広くこなす傍ら、新派の舞台に立ったりヨーロッパへ演劇の研究に行くなどの活躍を見せ、将来を嘱望されていた。しかし、晩年は不遇で、病気がちと言う事もあり長男に六代目澤村田之助を譲り、自らは澤村曙山を名乗って引退した。
六代目
1932–2022
五代目澤村田之助の長男。東京出身。四代目澤村由次郎として、『伽羅先代萩』、『高時』で初舞台。父の引退に伴い六代目澤村田之助を襲名。女形として活躍する一方、大の好角家で、横綱審議委員会委員にも名を連ねていた。紫綬褒章・旭日小綬章受章。人間国宝。高齢のため晩年は舞台に出る機会は無く、2022年に歴代最高齢の89歳で死去した。90歳の誕生日まであと1ヶ月あまりという中であった。没日付で従五位に叙せられている。
六代目の死後、紀伊国屋には後継者がいない状態である。弟・五代目由次郎が唯一田之助家の血筋として残っているが、高齢のため名を継ぐことは無いだろうと予想されており、七代目がどうなるかは不明。