概要
江戸歌舞伎の名跡で、延宝年間以前より300年以上に渡って継承されている。主に立役。
今日では市川宗家、ひいては江戸歌舞伎の宗家格と擬せられる大名跡「市川團十郎」を襲名する前にその名跡を名乗るのが通例である。
いわば江戸歌舞伎界の皇太子とも言うべき名跡であり、その重みは並々ならぬものがあると言えよう。
なお、実は團十郎より先に海老蔵の名跡は誕生した。初代海老蔵がその後初代團十郎を名乗ったのがその始まりである。
その後は團十郎の隠居名として海老蔵が使われたこともあったが、六代目團十郎(四代目海老蔵)以降は七代目が一度海老蔵(ただし表記はゑび蔵)から團十郎を名乗った後息子に名を譲って再び海老蔵(今度はこの表記)となった事例を除き、概ね海老蔵から團十郎となるのが通例となっている。
当然、直近の團十郎が死去などで不在となると、後継者たる海老蔵が(その本人の團十郎襲名まで)成田屋市川宗家の当主となる。2013年以降2022年まで、十二代目團十郎の死去により十一代目海老蔵が成田屋の当主となった(2022年に十三代目團十郎襲名)。
代々
代々の海老蔵のうち、七・八代目を除き市川團十郎も名乗った。また市川團十郎のうち、市川海老蔵(及びそれに類する名前)を一度も名乗っていないのは三代目と九代目、十代目のみ。
初代
前述の通り初代海老蔵が初代團十郎であり、成田屋市川宗家の祖である。
二代目
初代の子である二代目(初名は初代市川九蔵)は逆に二代目團十郎から二代目海老蔵を襲名した。
三代目
二代目の養子。
松本幸四郎家の養子となりその二代目となるが、三代目團十郎が急逝した事を受けて二代目の娘婿である事から市川宗家を継承した。
二代目と同じく團十郎から海老蔵となる、なお海老蔵になる前に松本幸四郎にも復している。
「市川蝦蔵」
三代目の子。團十郎を三代目から継承した。二・三代目と同じく團十郎からこの名へと移行
。
海老蔵ではなく蝦蔵としたのは、祖父、父に遠慮してのこと。「蝦」は小型の海老類を指す。
その為、歴代の「海老蔵」には含まれず代外である。
四代目
蝦蔵の子。妾腹の子であり、弟子の家に預けられたのち改めて父の養子となる。海老蔵から團十郎を襲名した初代以来の人物。
五代目
四代目の甥で養子。
市川新之助の初代。当初は「ゑび蔵」を名乗ったが、彼が七代目團十郎を襲名したのちに後述の息子が名乗ったのは「六代目海老蔵」の為、当初より「五代目海老蔵」と認識されていた。
息子に團十郎を譲ったのちは正規表記の「五代目海老蔵」を再度襲名。最後は隠居名二代目市川白猿となった。
大変な子沢山で、六代目から八代目までの海老蔵、および海老蔵を名乗っていない九代目團十郎は全て五代目の子供である。
六代目
五代目の長男。二代目新之助から六代目海老蔵を名乗り、後に八代目團十郎を襲名。
だが32歳の若さで大坂で自殺するという悲劇的な最期を迎えた。
原因は諸説あるが、未だに不明である。
七代目
六代目の弟で五代目の三男。兄亡き後は後継者とも目されたが1874年、團十郎を継ぐことなく没した。
同年、弟で河原崎座座元の養子となっていた初代河原崎権十郎(当時は名を譲って河原崎三升)が海老蔵を経ずに九代目團十郎を襲名した。
八代目
六代目・七代目及び九代目團十郎の弟で五代目の七男。末息子である。時に1881年に八代目を襲名する。九代目には男子がいなかったため、彼を後継者と擬したと考えられる。
しかし襲名から五年で兄團十郎に先駆け死去。以後團十郎は市川新蔵を養子として育てるがこれにも先立たれ、その死後は59年に渡って市川團十郎は空位となった。
一方で市川海老蔵もまた、この八代目の死去により1886年から1939年まで53年の長きに渡って空位の時代が続いた。
九代目
七代目松本幸四郎の長男。
市川三升(九代目團十郎の娘婿、元銀行員の素人であったが九代目の死後40年間市川宗家を守り抜いた人物、後に十代目市川團十郎を追贈)の養子。花の海老様の通り名で知られた。
久方ぶりとなる幸四郎家からの養子であると共に、長らく途絶えていた市川宗家の復興の役割を果たす役目となる。
当初は初代松本金太郎から九代目市川高麗蔵として高麗屋松本幸四郎家の後継者として育てられたが、実子のいない市川三升に望まれる形で成田屋の継承者となり、1939年に八代目死去以来53年ぶりに海老蔵を襲名。
その後1962年、ついに59年ぶりとなる市川團十郎(十一代目、十代目は養父三升に追贈)復活にこぎつけるが、その襲名から僅か三年半で死去。
このため團十郎としての実績はそれほど多く無く、今でも海老蔵といえば彼のことを指す人も多く、また彼のことを海老蔵と呼ぶ者も多い。
若手の頃は大根役者呼ばわりされ、また癇癪を起こしたり気持ちを伝えるのが下手でトラブルを多く起こすなど面倒な役者と見られた。
性格は晩年に至るまで変わらなかったようだが、戦後は蛹が羽化したかのごとく目覚ましい芸の進歩で江戸歌舞伎の第一人者となり、多くの高評価を経た。九代目團十郎と共に、近現代の市川宗家を代表する役者となっている。
十代目
九代目の長男(なお、九代目には十代目よりも前に夭折した息子がいたが、今日では彼を長男としている)。
まだ20歳の若さで父の死去により市川宗家を継承せねばならなかった。そのための苦労は並々ならぬものがあったが、晩年ではパリ・オペラ座公演など数々の公演をこなし、国際的に歌舞伎の評価を高めた第一人者である。
九代目團十郎の養子以来となる市川新之助を六代目として名乗り、従兄弟にあたる初代尾上辰之助、音羽屋尾上菊五郎家の後継者である四代目尾上菊之助(後の七代目尾上菊五郎)と共に「三之助」と言われたが、1969年に十代目を襲名。
その後1985年には十二代目團十郎を襲名。海老蔵時代は15年ほど続いたが、三之助の時代や、團十郎襲名後の数々の功績、父である先代と息子である当代に挟まれ、海老蔵時代の印象は今日では薄れている。
私生活でも人格者として知られたが、一方で息子に対しては過保護ではないかと指摘されることもあり、晩年はその息子のトラブルに悩まされた。
2004年より白血病を発症。長きに渡る闘病生活の末、2013年に死去。前後して人間国宝三方(五代目中村富十郎、四代目中村雀右衛門、七代目中村芝翫)の他、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎ら同年代の役者も癌で死去。
改めて現代病の怖さを思い知ると共に、この歌舞伎界の相次ぐ大きな損失には「歌舞伎座の呪い」の噂が立つことにもなった。これは息子の発言も併せて後述する。
十一代目
概要
十代目の長男。
初名はこれも父から引き継いだ七代目市川新之助。2004年に十一代目を襲名。祖父にあやかって「海老様」と呼ばれることもある。また、新之助時代は前記三之助の他の息子たち(二代目尾上辰之助(現:四代目尾上松緑)、五代目尾上菊之助)と共に「平成の三之助」と呼ばれた。
父と共にパリ・オペラ座で公演を行うなど、若年時からスター街道を突き進む。一方で後述する通りトラブルの多い人物でもある。
本業の歌舞伎以外でも伊藤園の「お~いお茶」のCMや大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」主演でも知られる。2016年にはアニメ名探偵コナンにて本人役で声優を前後編二週に渡って演じた。
堀越学園高校卒。なお苗字が堀越だが、これは全くの偶然である。
2019年1月14日、2020年5月より長男・堀越勸玄の八代目 市川新之助と十三代目 市川團十郎 白猿(じゅうさんだいめ いちかわ だんじゅうろう はくえん)の親子同時襲名を発表する。長女の麗禾も市川流舞踏・四代目市川ぼたんを8月に襲名した(妹・三代目ぼたんが四代目市川翠扇を、叔母(父の妹)二代目市川紅梅が初代市川壽紅を同時に襲名)。
ただし、2020年初頭より世界的に感染爆発を起こした新型コロナウイルス感染症により歌舞伎座の長期休止を余儀なくされ、この影響で襲名が延期されている。その後同感染症の影響が落ち着いたことから、2022年11月に十三代目團十郎を襲名した。
この襲名により、再び市川海老蔵の名は空位となった。恐らくは新・新之助が青年期となり十二代目を襲名するまでしばしこの名を見ることは無くなるだろう。
2021年に行われた東京オリンピック(2020年)の開会式にて、歌舞伎「暫(しばらく)」を披露した。
親族
兄弟は妹(舞踏家の四代目市川翠扇)がいる。妻はアナウンサーの小林麻央。小林麻耶は義姉。他に叔母(父の妹)。
子供は2011年に長女が、2013年に長男が誕生。後述するが他に非嫡出子が一女。長男の堀越勸玄(かんげん)は2015年に初御目見得を行った。順当に行けば2018年頃には初舞台となると思われる。
松緑の祖父二代目尾上松緑と、市川染五郎の祖父八代目松本幸四郎は、十一代目の祖父の弟であるため、松緑・染五郎とははとこの関係にある。また菊之助の妻は八代目幸四郎の次男(染五郎の父・九代目幸四郎の弟)二代目中村吉右衛門の娘であるため、義理のはとこである。
そのため、長男の勸玄と、松緑の長男三代目尾上左近、染五郎の長男四代目松本金太郎、菊之助の長男寺嶋和史は三従兄弟(みいとこ)の関係。加えて菊之助と十一代目は同い年だが、息子の勸玄と和史も一学年違いで同年生まれである。
不祥事
新之助時代の2003年には隠し子が発覚。既に認知して養育費を支払っていることが判明した。
2010年にはバーで飲み明かしていたところを共に飲んでいた男性の知人らと口論になり、この時男性の知人の一人から暴行を受ける。
海老蔵側は否定しているものの、加害者側からは「灰皿にテキーラを入れて飲ませようとした」などの証言もあった。
この事件により左頬を陥没骨折するなど下手をすれば役者生命に関わる顔面損傷を負い、以後自宅謹慎、公演の休止を余儀なくされた。
この事件の影響で伊藤園のCMを降板することとなったが、2014年に復帰した。
二児の父として
その後、2011年と2013年に妻の小林麻央との間に子供が生まれ、その間に父の十二世團十郎が死去するなど、かなり慌ただしい日々を過ごしていたが、前述した2001年の不祥事と併せて、これらの出来事が海老蔵を人間的に大きく成長させていた。
以前の様な浮ついた雰囲気はすっかり消え、子供の世話をかなりしっかりとこなしている様子であり、メディア媒体にも多数出演するなど忙しい日々を送っていた。しかし、ようやく希望が見え始めた矢先、2016年に妻の体から癌が発見された。その際には家族に不安を与えまいと、押しかけたマスコミを牽制する姿は高い評価を得た。
しかし2017年6月22日。闘病の末に死去。本人はブログで「人生で一番泣いた日」と書いている。
発言
新しい歌舞伎座を見て、オフィスビル一体型となっていることを評して「これじゃあ芝居の神様も降りてこられないよな」と発言したことがある。
発言の通りなのか偶然かは不明であるが、前述の通り父を含む多くの役者、そして自身の暴行事件やはとこの染五郎の転落負傷事故など、新しい歌舞伎座が建設される前後に歌舞伎界を揺るがす事件が幾つも起こったこと自体は事実である。
なお、松竹によるとちゃんとお祓いは済ませたと言うが…。
これも偶然かどうかは不明であるが、続く形で2011年以降自身や菊之助、中村勘九郎、坂東亀三郎、市川右近、中村梅枝、中村歌昇らが次々と男子に恵まれ、新世代が間もなく花開こうとしていることもまた事実である。
関連項目
猿之助家・團蔵家・左團次家・右團次家・松本幸四郎家などは何れも市川宗家の門弟・分家筋。尾上松緑家は尾上菊五郎家の門弟筋だが血筋上は市川家の分家(九代目の実弟が二代目尾上松緑)。
歌舞伎役者では江戸の立役のうち大体三名が人間国宝となると言われている。
現在は七代目尾上菊五郎と二代目中村吉右衛門がその立場。意外にも歴代海老蔵・團十郎では未だ任ぜられたものがいない。
これは九代目(十一代目團十郎)が認定前に死去したこと、十代目(十二代目團十郎)の頃には国宝認定者が多く上が詰まっていたままやはり亡くなってしまったことが原因と言われる。それ以前には制度自体が無かった。