本記事では、1978年~1992年までの球団の歴史について記述する。
以前の歴史については「大洋ホエールズ」を、1993年から2011年については「横浜ベイスターズ」を、2012年以降については「横浜DeNAベイスターズ」の記事をそれぞれ参照。
球団史
略史
1978年、横浜スタジアムの完成をもって本拠地を神奈川県川崎市から横浜市に移転し、「横浜大洋ホエールズ」として再出発。それまでの本拠地・川崎球場はロッテオリオンズの本拠地となった。
1979年は、2位となり、横浜大洋時代はこれが最高順位となった。しかし、この後の2年間は再びBクラスに沈む。
1982年、長嶋茂雄を招聘すべく、長嶋ファンである関根潤三を招聘した。1983年は3位で、1980年代で唯一のAクラスとなる。
しかし、長嶋の招聘には失敗し、挽回を図るべく、1982年に中日ドラゴンズを優勝に導いた近藤貞雄を監督に招聘する。
近藤は、俊足の3選手を上位打線に固め、「スーパーカートリオ」として売り出し、3人で148盗塁を記録した。
しかし、結果には結びつかず、近藤は2年で辞任。
1987年からの3年間は、広島東洋カープの黄金時代を築いた名将・古葉竹識を招聘して臨んだが、いずれもBクラスに終わった。
1990年からは、若手選手育成に定評のある須藤豊が監督に就任。1年目は7年ぶりのAクラスとなる3位だったが、91年は5位。
そして92年の途中で須藤は休養。代行として、江尻亮が継いだ。
古葉・須藤時代は成績は振るわなかったものの、この時代にドラフトで入団した選手は、後に1998年の優勝メンバーの中核となる。
1992年限りで親会社の大洋漁業が「マルハ」へと社名を変更することに伴い、また「捕鯨に頼るわけにいかない」とのことから、チーム名が横浜ベイスターズに変更されることになった。
92年シーズン最終戦は、横浜大洋時代の15年間を支えた遠藤一彦の引退試合で、またベイスターズの中心選手となる三浦大輔のプロ初登板試合でもあった。
順位の推移
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1978年 | 4位 | 別当薫 |
1979年 | 2位 | 別当薫 |
1980年 | 4位 | 土井淳 |
1981年 | 6位 | 土井淳 |
1982年 | 5位 | 関根潤三 |
1983年 | 3位 | 関根潤三 |
1984年 | 6位 | 関根潤三 |
1985年 | 4位 | 近藤貞雄 |
1986年 | 4位 | 近藤貞雄 |
1987年 | 5位 | 古葉竹識 |
1988年 | 4位 | 古葉竹識 |
1989年 | 6位 | 古葉竹識 |
1990年 | 3位 | 須藤豊 |
1991年 | 5位 | 須藤豊 |
1992年 | 5位 | 須藤豊→江尻亮 |
主な選手
球団名が横浜DeNAベイスターズに変わってから5年目の2016年に三浦大輔が現役を引退したことで、横浜大洋ホエールズに在籍した選手はすべて現役を退いた。
投手
- 平松政次 1967~1984
カミソリシュートを武器に、長嶋茂雄を苦しめたエース。川崎時代から横浜時代にかけて長きにわたり活躍。
1983年に通算200勝を達成。通算201勝は球団記録だが、リーグ優勝は一度も出来なかった。
名球会投手でリーグ優勝経験がないのは平松のみ(他に野口二郎がいるが、彼は大正生まれであるため、名球会には入れない)。
- 遠藤一彦 1978~1992
現役生活15年間を「横浜大洋」一筋でプレーしたエースで、ファンからは「大遠藤様」と呼ばれる。
- 斉藤明夫 1977~1993
口ヒゲがトレードマークの投手で、川崎時代からベイスターズになるまで在籍した唯一の選手。
- 三浦大輔 1992~2016
「ハマの番長」とあだ名される投手。
大洋漁業(マルハ)、TBS、DeNAと親会社が変わっても横浜一筋で所属し続けた最後の大洋戦士。
捕手
- 福嶋久晃 1966~1984
1966年にドラフト外で入団し、川崎時代末期に正捕手となる。
1985年に広島へ移籍した。女子プロゴルファーの福嶋晃子は実娘。
- 若菜嘉晴 1983~1989
1983年に阪神から移籍。パスボールが多かったのが特徴だった。1990年に日本ハムファイターズに移籍し、翌年引退。
西鉄ライオンズに在籍した最後の現役選手だった。
- 市川和正 1981~1993
ニックネームは「グラウンドの詐欺師」。「東の市川・西の達川」と珍プレーの常連だった。
1993年の戦力外の1人となり、現役を引退。
内野手
- 高木豊 1981~1993
二塁手として大洋のレギュラーを獲得。1番打者として、加藤博一・屋鋪要とスーパーカートリオを結成した。
長らくチームの顔として活躍したが、1993年のオフに戦力外通告を受ける。翌年日本ハムファイターズに移籍するが、同年限りで引退。
- 田代富雄 1973~1991
通称「オバQ」。(由来は入団当初に間の抜けた返事をして、当時のコーチに「オバQみたいだ」と言われたことから。)
大洋の和製大砲として、川崎時代から活躍。通算278本塁打を放つ。
1991年限りで引退。引退試合では逆転満塁本塁打を放ち、有終の美を飾った。
2009年には、休養した大矢明彦に代わり監督代行として指揮を執ったがチームを浮上させることは出来ず、その年限りで退任。
- 高橋雅裕(高橋眞裕) 1984~1996
加藤博一に代わり、「新スーパーカートリオ」の一員となった。だが、球団名がベイスターズになると徐々に出番が減少。
1997年にロッテへ移籍し、同年限りで引退。
大洋時代の応援歌は「グリーン・グリーン」の替え歌である。
- 銚子利夫 1984~1991
銚子高校出身で、「銚子高校の銚子くん」とあだ名された。ポンセが外野にコンバートされてからは三塁手のレギュラーとして活躍。
1992年に長内孝とのトレードで広島に移籍し、翌年に引退。
外野手
- 屋鋪要 1978~1993
高木豊・加藤博一とともにスーパーカートリオの一員として活躍。主に3番打者を務めた。俊足を活かした広い守備範囲が持ち味で、
グラウンドを縦横無尽に駆け、センターラインの要として活躍したが、1993年オフに戦力外通告を受ける。
翌年読売ジャイアンツに移籍。口ヒゲがトレードマークで、「ヒゲ禁止」で知られる巨人だが、長嶋監督がそのヒゲを気に入ったことと、入団前後の活躍が認められ、特例としてヒゲを生やすことを許された。1995年に現役引退。
遠藤一彦・斉藤明夫と共に、「横浜大洋ホエールズ」時代の15年間すべてに在籍した選手でもある。
現在は蒸気機関車マニアとして有名で、保存蒸気機関車撮影のため全国各地を回っている。
大洋時代の応援歌は「オブラディ・オブラダ」の替え歌である。
- 山崎賢一 1981~1993
目つきの鋭さから、「番長」と呼ばれた選手。「こけしバット」という、グリップエンドがこけしのような形をしたバットで外野のレギュラーを獲得。
しかし、1993年のオフの戦力外の一員となり、翌年に福岡ダイエーホークスに移籍。
1996年に引退。戦力外の6人の中で、最後まで現役を続けた。
現在「ハマの番長」という称号は三浦大輔に引き継がれている。
- 加藤博一 1982~1990
高木豊・屋鋪要とともにスーパーカートリオの一員として活躍。1982年に阪神から移籍。1990年に引退。
引退後もタレントとして活動していたが、2008年に死去。
応援歌は「蒲田行進曲」の替え歌である。
助っ人外国人
- フィリックス・ミヤーン 1978~1980
1978年に来日する前にも日米野球で活躍していた。独特の打法で2年目の79年に首位打者を獲得した。
- レオン・リー 1983~1985
ロッテで活躍したレロン・リーの弟。1978年に兄に誘われロッテに入団。
その後は、大洋→ヤクルトと日本球界を渡り歩き、1987年限りで帰国(兄のレロンも同年限りで帰国した)。
3球団で30本塁打以上を記録し、兄弟揃って安定した活躍を見せた。
2003年には、オリックス・ブルーウェーブの監督も務めた。
- カルロス・ポンセ 1986~1990
ヒゲを生やした風貌から、「マリオ」の愛称で親しまれた助っ人。87年から2年連続で打点王。
88年には本塁打王にも輝き、2年連続でベストナインに選ばれた。
応援歌は「ラ・クカラーチャ」の替え歌である。
- ジム・パチョレック 1988~1991
愛称は「パッキー」。アベレージヒッターとして活躍し、ポンセとの「PPコンビ」は他球団の脅威だった。
1992年に阪神タイガースに移籍し、翌93年途中に退団した。
応援歌は、「大脱走のテーマ」の替え歌である。
関連動画
↓球団歌「行くぞ大洋」。川崎時代最終年の1977年に誕生し、横浜移転後も引き続き使用された。
関連タグ
大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズ
横浜大洋銀行:1980年代に横浜大洋があまりにも弱すぎたため付いた蔑称
佐々木主浩(大魔神) 斎藤隆 屋鋪要 高木豊 山下大輔 遠藤一彦 シピン 石井琢朗 谷繁元信 ポンセ パチョレック 湘南シーレックス 中山裕章