概要
「北海道日本ハムファイターズ」の1974年から2003年までの名称。なお現在でも正式名称の北海道~が長いため、こちらが球団名タグとして使われることがある。
ここでは主に1974年から2003年まで(いわゆる東京時代)の球団の歴史について解説する。
球団史
1970年代、新生ファイターズ
1973年オフ、わずか1年で球団を手放した日拓ホームフライヤーズを日本ハムが買収し、また、チーム名も公募から「ファイターズ」に変更された。名前が変更された理由としては、「フライ」(fly)には「蝿」の意味があるため、食品を扱う会社にとってはイメージがよくないからだとされる。また、「ファイターズ」の名前は「大阪のハム会社が東京への販路拡大という『戦い』に挑む」意味合いが込められていたとのこと。
本拠地は日拓時代の後楽園球場を維持。
新生チームの監督には中西太が就任するが、2年連続で最下位に終わる。
球団は血の入れ替えが必要だと判断し、東映時代の中心選手が次々とトレードされた。
1974年オフに大杉勝男はヤクルトスワローズへ、白仁天は太平洋クラブライオンズへ、そして翌75年オフには張本勲が読売ジャイアンツへ移籍した。
1976年からは「親分」こと大沢啓二が監督に就任。1978年には11年ぶり、ファイターズになって初のAクラスとなる3位になる。
1980年代、一時の栄光
1981年、大沢監督の下、62年以来19年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。日本シリーズでは、当時同じく後楽園球場を本拠地としていた読売ジャイアンツと対戦。「後楽園決戦」と呼ばれた対戦は2勝4敗で敗れた。ちなみに、巨人との日本シリーズは後に2009年と2012年にも行われたが、いずれも2勝4敗で敗れている。また、オーナー・大社義規はこのとき日本一になった場合に胴上げ時に着用するユニフォームとして背番号「100」を用意しており、生涯着用することは叶わなかったが、これが後に球団の永久欠番となった。
1983年まで大沢が指揮を執り、植村義信に禅譲するが、植村は同シーズン途中で休養となってしまったため、後半戦は大沢が代行として再び指揮した。
1985年からは巨人のV9戦士の一員である高田繁が監督に就任。4年目の1988年に、巨人共々本拠地が東京ドームに移転する。
1988年はドーム効果で観客動員数は伸びたが、まるでバブルが如くその効果はあっという間に消え去った。また、この時期に黄金時代を築く西武ライオンズにはなかなか勝てず、同年限りで高田は辞任した。
1989年からの3年間は近藤貞雄が指揮したが、3年間全てBクラスに終わった。
1990年代、日陰の下で
1992年に生え抜きの土橋正幸が監督に就任するが、わずか1年で辞任。
1993年にユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。監督は10年ぶりに大沢啓二が復帰。同年は2位に躍進したが、翌1994年は一転して最下位に沈み、大沢は本拠地最終戦でファンに土下座をした。
1995年からは、阪急ブレーブスの黄金時代を築いた名将・上田利治を監督に招聘。
1996年は前半戦は首位を走るが、上田監督が「家庭の事情」により9月に休養を発表。この時は辞任せず続投するが、オリックスに逆転優勝を許す。
1997年に二軍が千葉県鎌ヶ谷市に移転。以降現在に至るまで使用。この年に落合博満が巨人から移籍。
1998年はビッグバン打線が猛威を奮い、前半戦を独走で折り返すが、後半戦は投手陣がビッグバン(炎上)を起こして大失速し西武に優勝を奪われてしまう。同年限りで落合は引退。上田も1999年に辞任した。
余談だが1999年には「松坂大輔の155km/hに片岡が空振りを喫する」「ホークスの福岡移転後初優勝を目の前で達成される」という、後世にヒール役として映像が残されてしまう屈辱を1年に2度も味わっている。
このように、1990年代では優勝争いに何度か加わり、特に1993年にはあと一歩のところまで漕ぎ着けた。それでも優勝に届かなかった要因はいくつか挙げられるが、後述の不人気が要因の一つと言えるか。
この頃の主力選手としては、「まいど!」で鳴らした岩本勉や「ガッツ」こと小笠原道大、ミスターファイターズ田中幸雄などがいる。
2000年代、乾坤一擲
2002年開幕前に2004年を目処とした本拠地の札幌移転が北海道新聞に報じられ、球団側もこれを肯定。これ以降移転に向けた準備(ドタバタとも言う)が進行することになった。
2003年にはトレイ・ヒルマンが監督に就任、5位に終わる。次年度への準備として札幌ドームでの主催試合を何試合か行った。
そして翌2004年からは本拠地を札幌ドームに移し、球団名は「北海道日本ハムファイターズ」となった。
ちなみにこの移転、親会社を変えずに本拠地を遠方へ移転させるというプロ野球史上異例のものであった(ホークスやライオンズは親会社の変更と共に遠方に移転しているが、この時のファイターズはそうではなかった)。
順位の推移
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1974年 | 6位 | 中西太 |
1975年 | 6位 | 中西太 |
1976年 | 5位 | 大沢啓二 |
1977年 | 5位 | 大沢啓二 |
1978年 | 3位 | 大沢啓二 |
1979年 | 3位 | 大沢啓二 |
1980年 | 3位 | 大沢啓二 |
1981年 | 1位 | 大沢啓二 |
1982年 | 2位 | 大沢啓二 |
1983年 | 3位 | 大沢啓二 |
1984年 | 6位 | 植村義信→大沢啓二 |
1985年 | 5位 | 高田繁 |
1986年 | 5位 | 高田繁 |
1987年 | 3位 | 高田繁 |
1988年 | 3位 | 高田繁 |
1989年 | 5位 | 近藤貞雄 |
1990年 | 4位 | 近藤貞雄 |
1991年 | 4位 | 近藤貞雄 |
1992年 | 5位 | 土橋正幸 |
1993年 | 2位 | 大沢啓二 |
1994年 | 6位 | 大沢啓二 |
1995年 | 4位 | 上田利治 |
1996年 | 2位 | 上田利治 |
1997年 | 4位 | 上田利治 |
1998年 | 2位 | 上田利治 |
1999年 | 5位 | 上田利治 |
2000年 | 3位 | 大島康徳 |
2001年 | 6位 | 大島康徳 |
2002年 | 5位 | 大島康徳 |
2003年 | 5位 | トレイ・ヒルマン |
マスコット
1981年にデビュー。本名は「ギョロ目の舌吉(タンキチ)」。
日本ハムのみならず、日本球界初のマスコットである。
モチーフは太陽。
長らく伝説のマスコットとなっていたが、2014年に復活した。
1993年にデビュー。プテラノドンがモチーフ。
東京時代を代表するマスコットで、本拠地が北海道に移転してからも暫くは後任のB・B(ブリスキー・ザ・ベアー)と共に活動していたが、2005年を以て引退した。
2014年にはギョロタンと共に一時復活した。
1993年から2003年までのペットマークに使用された仮面の男。
特定の名前はなく、ただ単に「鉄仮面」「仮面の男」と呼ばれた。
不人気球団
東京時代のファイターズといえば不人気の一言が常について回るほどの球団だった。それも尋常ではないレベルで。
東京ドームができたての頃はドーム効果で客入りがよかったが、それも一時的で、1990年代以降は札幌移転まで悲惨な様相を呈していた。
- ある雑誌が行った「好きなプロ野球の球団は?」というアンケートで「ファイターズ」と答えた人の割合は0%
- 主催試合で客席ガラガラは当たり前。ただし相手チームのスター選手が試合に出るときは観客が多く入った(例としてこの人やこの人やこの人やこの人)
- 「日本ハムVSロッテ」が「空席が多いことのたとえ」に使われる。だいたひかるにも「どうでもいい」とネタにされる
- 観戦チケットが地下鉄の駅に平積みされていたことがあった(ちなみに無料)
- あまりにチケットが取りやすいせいで、主催試合で東京に修学旅行に来た生徒の一団が客席に座っていることが間々あったが、そんな彼らも試合の終盤には帰っていた
- 声優の始球式がある時にはそれなりに観客が入った。当然試合が始まる前まで
- 当時声優の社会的地位は低く、同年の巨人の始球式が当時売り出し中のこの人だったことからも格差がうかがえる
- 日ハム戦の観戦チケットを渡すのに「東京ドームの試合の観戦チケット」と言わないと受け取ってもらえない。学校へ行こう!で軟式globeがネタにするほど
- 上記の「後楽園決戦」では観客の殆どが巨人ファンだった。日ハムファンが数の少なさを馬鹿にされて巨人ファンと揉み合いの喧嘩になったらしい
- 夏休みの東京ドームは巨人のホームゲームと社会人野球の都市対抗野球でほぼ独占状態となり、年によっては阪神タイガースを越える死のロードとなることもあった
- 本拠地のはずの東京ドームではロッカーの冷蔵庫は巨人の選手専用のため日ハムの選手は使えず、グッズ販売店では日ハムのグッズがビジターコーナーにひっそりと売られている状態だった
- ドームの関係者から「日ハムさんには早く出ていって貰いたい」と言われたこともあるという
- ファイターズの売上20億円、ドームの借地料40億円
このような状況でも身売りしなかったのは、当時のオーナー・大社義規が大の野球好きで、事あるごとに球場に足を運んでは選手に檄を飛ばすほど熱心に応援していたことが主因と言われている。
関連動画
初代球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』
二代目球団歌『ファイターズ賛歌(讃歌)』
ファイターズになった1974年に制作されたと思われていたが、正式には3年後の1977年に制作されていたことが判明している。
現在使われているパ・リーグ6球団の応援歌では最も古いが……
実は当初の球団歌は『それゆけ〜』の方であり、『讃歌』はオマケ扱いであった。
というのも、小さな子供のファンを増やそうと計画していた球団が、子供の好きなアニメソング風の歌を作成し呼び込もうとしていたらしく、その影響で「野球の平和を守るため」なるトンチキ歌詞が入った『それゆけ〜』が作成されたとのこと。おまけに歌唱担当もこれまたアニメソング界の大御所ささきいさお氏を抜擢した。『讃歌』はそのついでで作られたようだ。
時代を経るにつれて立場が逆転し、現在では『讃歌』を球団歌としている。北海道移転時にも『讃歌』のみが継承されている。
2000年に速水けんたろうが、2014年に上杉周大が引き継いだ。
『それゆけ〜』は公式には使われなくなったが、応援団がチームの得点時に演奏している。
なお、リリース当初は『ファイターズ賛歌』だったが、現在は『ファイターズ讃歌』と記すのが正しい。
参考記事:はじめは“B面扱い”だった謎だらけの球団歌 『ファイターズ讃歌』の迷宮
↓1981年の日本シリーズ第1戦ハイライト
最後の東京ハム戦士
後楽園球場時代(1987年まで)
- 田中幸雄(1985年ドラフト3位、2007年引退)
東京ドーム時代(2003年まで)
- 正田樹(1999年ドラフト1位、2023年引退)
NPBのみに限ると2021年限りで引退した鶴岡慎也が最後となった。
関連イラスト
↑1980年代のオレンジユニフォーム。モデルは高槻やよい。
関連タグ
- セネタース:1946年
- 東急フライヤーズ:1947年
- 急映フライヤーズ:1948年
- 東急フライヤーズ:1949年~1953年
- 東映フライヤーズ:1954年~1972年
- 日拓ホームフライヤーズ:1973年
- 日本ハムファイターズ:1974年~2003年
- 北海道日本ハムファイターズ:2004年~