概要
実家は魚屋だった。
中学の頃から草野球に取り組んでいた。それが高じて東京都立日本橋高校卒業後は実家を手伝いながら浅草フランス座の軟式野球チームに在籍、しかも大会で優勝した事もあったそうな。
1954年秋に東映フライヤーズの入団テストを受けたところ、見事合格してしまう。兄と共に家業を継ぐものと思っていた母親はプロ入りに難色を示すも、「3年やってみてダメだったら魚屋に戻るから」と説得、東映に入団を果たす。
ただ入団後は1試合を想定して150球投げるだけでなくバッティングピッチャーをこなし、2軍戦で投げ、それが終わってからもさらにもう2時間ほど投げと、来る日も来る日もボールを投げ続けた。結果、「一軍で投げられる頃には自分の思うがままに投げられるようになった」とか。
ただその一軍でもなかなか結果を残せないでいたのだが、3年目の8月1日の対近鉄パールス戦、味方の貧打に苦しみながらも1-0の完封で遂にプロ初勝利、その年だけで5勝を挙げ、プロで喰っていける自信をつけた。
以後、翌1958年から1964年にかけて7年連続2桁勝利を挙げた。特に1961年には30勝したものの、上には上がいた・・・
そんな事もあってかタイトルとは無縁に終わった。あえて言えば1962年の日本シリーズのMVPであろうか。それとてバッテリーを組んでいた種茂雅之と分け合うハメになった。
その一方で1958年5月31日の対西鉄ライオンズ戦では、9連続・1試合16のWの奪三振記録をマークしている。
ただ(この頃のプロ野球の投手の宿命だったのかも知れないが)酷使を重ねた結果1965年のシーズン中に肩が悲鳴を上げてしまい、4勝に止まってしまう。翌1966年は6勝したもののシーズン途中で右脇腹を痛めて離脱、1967年に至ってはそれこそ満身創痍の状態で登板する有様で、結局このシーズンを最後に現役を退いた。
だが通算162勝は現在の北海道日本ハムファイターズになってもこの記録を超える生え抜き選手が出て来ていない。
引退後はヤクルトスワローズや日本ハムファイターズの監督を務めた事がある。
2013年8月24日、東京都内の病院でこの世を去った。
その他
駆け引き無用のテンポある、小気味よいピッチングが特徴で、「いかにも江戸っ子だねぇ」とファンはうなったという。
そのせいか滅多に四球を与えなかったピッチャーでもあった。
関連タグ
井上ひさし:フランス座の軟式野球チーム時代のチームメイト。
森且行:高校の後輩