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概要編集

現在の北海道日本ハムファイターズの源流のプロ野球球団。

本記事では、1954年~1972年までの球団の歴史について解説。以前の歴史については「東急フライヤーズ」を、1973年については「日拓ホームフライヤーズ」を、1974年~2003年については「日本ハムファイターズ」を、2004年以降については「北海道日本ハムファイターズ」の記事をそれぞれ参照。


球団史編集

駒沢の暴れん坊編集

東京急行電鉄(現在の「東急」、「東急電鉄」は分社化)は1954年1月、当時東急グループの傍系企業でオーナー・大川博が社長を務めていた東映東急フライヤーズの球団運営を委託。この結果、球団名が東映フライヤーズへ変更されることになった。

チーム名が変更されたものの、球団保有自体は引き続き東急が行い、運営を東映が進めるという形式を取った。本拠地は引き続き駒沢球場駒澤野球場)を使用していた。


当時のフライヤーズは「駒沢の暴れん坊」とあだ名されるほど自由奔放なプレーが目立ち(要は任侠ものさながらの光景が試合中に普通に行われていた)、順位もBクラスに低迷していた。


「安打製造機」張本と初優勝・初日本一編集

1959年、後に3000本安打を達成する「安打製造機」こと張本勲が入団。このシーズンに初めてのAクラス入りを果たす。

1960年水原茂が監督に就任。

しかし1962年東京オリンピック開催のため駒沢球場が取り壊されることとなり、1961年シーズンをもって本拠地を失う。


神宮球場(1962年〜1963年、学生野球の開催時期は後楽園球場を使用)と後楽園球場(1964年)を間借りすることになったが、1965年に正式に後楽園球場に移転することになった。2004年に札幌に移転するまで、球団(身売り先含め)は読売ジャイアンツと同一の本拠地を使用することになる。


その1962年には張本勲、土橋正幸(トップイラスト)、尾崎行雄種茂雅之らの活躍でリーグ初優勝、日本シリーズでも阪神タイガースを破り初の日本一を飾る。この年の日本シリーズMVPは土橋と種茂の2人が受賞したが、2人同時受賞は史上唯一のことである。そしてこれが球団の東京時代での唯一の日本一でもあった。


低迷と身売り編集

1960年代後半は張本だけでなく大杉勝男白仁天毒島章一ら強打者が多数在籍した。

しかし1963年以降は優勝から遠ざかり、オーナーの大川博は球団に金を使おうとせず、補強や育成も間々ならなかった。1967年に水原が退任すると、以降成績が低迷した。

1970年代には「黒い霧事件」が発覚し主力選手が離脱。また映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷し、経営状況も悪化の一途を辿った。

大川も1971年に急逝し、後を継いだ新しいオーナーは野球嫌いであり、チームを手放すことを考えていた。


結果、1973年に東映は日拓ホームに球団経営権を譲渡。チーム名を日拓ホームフライヤーズとした。


順位の変遷編集

順位監督
1954年7位※井野川利春
1955年7位※保井浩一
1956年6位※岩本義行
1957年5位※岩本義行
1958年5位岩本義行
1959年3位岩本義行
1960年5位岩本義行→保井浩一
1961年2位水原茂
1962年1位水原茂
1963年3位水原茂
1964年3位水原茂
1965年2位水原茂
1966年3位水原茂
1967年3位水原茂
1968年6位大下弘→飯島滋弥
1969年4位松木謙治郎
1970年5位松木謙次郎→田宮謙次郎
1971年5位田宮謙次郎
1972年4位田宮謙次郎

※1956年まで8球団、1957年は7球団で、1958年より6球団となる。


主な選手編集

※優勝した1962年のメンバーを中心に紹介する。

投手編集

  • 土橋正幸
  • 尾崎行雄
  • 安藤元博
  • 森安敏明

捕手編集

  • 安藤順三
  • 種茂雅之

内野手編集

  • 大杉勝男
  • 山本八郎
  • 青野修三
  • 大下剛史

外野手編集

  • 張本勲
  • 毒島章一
  • 島田雄二(1957年〜1965年)

助っ人外国人編集

  • ジャック・ラドラ
  • 白仁天

その他編集

詳細は当該記事参照。

  • ドン・ジマー(内野手)

1年(1966年)のみ在籍後、選手としては現役引退。後にMLB4球団(サンディエゴ・パドレスボストン・レッドソックステキサス・レンジャーズシカゴ・カブス)及びメジャーリーグ選抜(1990年の日米野球)の監督、ニューヨーク・ヤンキースのベンチコーチ、タンパベイ・レイズのシニアアドバイザーを務め、レイズで付けていた背番号「66」は永久欠番となった。


球団歌編集

  • 「東映フライヤーズの歌」

作詞藤浦洸作曲古関裕而

発表当初は音源化されておらず、古関氏が作曲した曲であること以外はほとんど知られていなかった。2021年1月、北海道新聞の調査・取材で福島県古関裕而記念館に所蔵されている資料の中からこの曲の歌詞と楽譜(古関氏直筆)が発見された。


発見された楽譜によると、当初は前身である東急時代の球団歌「東急フライヤーズの唄」から歌詞に最小限の改訂を加えたものが使用されていた。しかし、1967年に古関氏自身が旋律の大幅な改訂を行った「東映フライヤーズの歌」と題する別バージョンが存在している(現存する楽譜に「42・7・9改訂」と記載されていることから、改訂日は1967年〈昭和42年〉7月9日と考えられる)。これについては、「原曲は高音が多用されて歌いにくい」という意見を受けて作曲し直した可能性があると推測されている。


東映が日拓ホームに球団を売却し日拓ホームフライヤーズに改称された際、球団旗は東映時代のものが継続使用されているが、球団歌については引き継がれたのかどうかは不明。その後、日拓ホームが球団を日本ハムに売却して「日本ハムファイターズ」となり、新しい球団歌が制定されて現在に至る(事情が複雑なので、詳細は球団の記事を参照)。


その他編集

1962年の日本一の後、親会社である東映が『東映優勝 背番号100』という映画を作成している。背番号100はオーナーの大川博が胴上げ時に着けていたもの。

後継球団である(北海道)日本ハムファイターズでもこれを受け継ぎ、日本一決定時に初代オーナーが100を着用して胴上げされる予定であった。

なお、映画会社が親会社を務める球団の日本一は、後にも先にも1962年の東映だけである。


北海道日本ハムファイターズにおいて、2017年に1962年当時の東映時代のユニフォームが復刻されている。

復刻決定の際に東映自身も特集記事を組んだ。


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