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現在の北海道日本ハムファイターズの源流のプロ野球球団。

本記事では、1945年11月に設立された「セネタース」時代から、球団の東映移管までの球団史を解説。


球団史編集

前史:東京セネタース編集

東京セネタースの項目を参照。なお、チーム解散扱いであるため直接的な繋がりはない。


セネタース復活、東急の参入編集

太平洋戦争終結後の1945年、解散した東京セネタース(解散時は西鉄軍を名乗っていたが、後の西鉄ライオンズとは組織上無関係)の中心メンバーだった横沢三郎が同球団の復活をもくろみ、新たにセネタースを立ち上げ、同じく新規球団のゴールドスター(千葉ロッテマリーンズの源流)とともに野球連盟に加盟。大下弘飯島滋弥白木義一郎ら即戦力選手を集めたが、財政的に厳しく結局1年で横沢は球団経営をあきらめてしまう。また、9月には日本プロ野球では初となる放棄試合を記録した。

一方の西鉄は同じく東京セネタース復活を計画するも認められず、新たに西鉄クリッパース(現在の埼玉西武ライオンズ)を立ち上げ連盟に加入した。


1947年からは東京急行電鉄(現在の「東急」、「東急電鉄」は分社化)が球団を買い取って東急フライヤーズと改称。オーナーは大川博が務めた。さらに1948年には国民野球連盟に携わっていた大映が接近、急映フライヤーズとして1シーズンのみ運営。

ところが大映は1949年から金星スターズ(旧ゴールドスター)を買収して大映スターズを経営することになったため、1949年には東急フライヤーズに戻っている。


また1948年、大映が参画したためにメンバーが増大したことから、プロ野球で初めてとなる二軍(チーム名は急映チックフライヤーズ東急チックフライヤーズ)を創設している。


2リーグ分立後編集

1949年の2リーグ分立ではパ・リーグに加盟。本拠地を後楽園球場、のち東急沿線の駒澤野球場(駒沢球場)に移した。

成績は振るわず、また1952年シーズン途中に当時スター選手だった大下弘が契約問題のこじれから西鉄ライオンズに移籍してしまう。

こうした中で1954年1月、当時東急グループの傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。この結果球団名が東映フライヤーズへ変更されることになった。


球団歌編集

  • 「東急フライヤーズの唄」

作詞藤浦洸作曲古関裕而

発表当初は音源化されておらず、古関氏が作曲した曲であること以外はほとんど知られていなかった。2021年1月、北海道新聞の調査・取材で福島県古関裕而記念館に所蔵されている資料の中(東急電鉄の社内報『清和』の1950年5月号)からこの曲の歌詞と楽譜が発見された。


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