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概要

1981年11月3日生まれ。

1999年の第81回全国高等学校野球選手権大会で桐生第一高等学校のエースとして群馬県勢初の優勝に貢献。

高校の1学年後輩に一場靖弘大廣翔治がいた。

同年のドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受けて入団。

2003年は27イニング連続無失点を記録したものの、春季キャンプで発症した左肩痛の影響もあり5勝15敗に終わった。

2004年は防御率5.00を記録するなど好不調の波が激しく登板数も17試合だったが8勝を挙げた。

2006年はチームは25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一、アジア一に輝いたものの、一軍登板なしに終わり、二軍(イースタン・リーグ)でも防御率5点台と結果を出せなかった。

阪神時代

2007年シーズン開幕直前の3月20日に金澤健人との交換トレードで阪神タイガースへ移籍した。

移籍初年度の2007年と2008年は一軍登板はなく、10月2日に戦力外通告を受けた。

台湾時代

2009年、台湾のプロ野球リーグCPBLの「興農ブルズ」に入団。

2010年は2年連続となる興農の開幕投手を務めた。32試合に登板し、11勝5敗、防御率2.81。リリーフとしての起用が増えたため、勝ち数は減ったが登板数は増えた。

独立リーグ・新潟時代

2011年2月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した。シーズン開幕前の3月29日に解雇された。4月8日に独立リーグである北信越ベースボール・チャレンジ・リーグ(現:ベースボール・チャレンジ・リーグ)の新潟アルビレックス・ベースボール・クラブに入団。

ヤクルト時代

2011年11月24日に、東京ヤクルトスワローズが正田と入団で合意したことを発表した。

独立リーグからNPBへ復帰したプロ野球選手としては、山田秋親に次いで2人目であった。

が、あまり結果を残せなかった。

台湾球界復帰

2014年1月20日にCPBLの「Lamigoモンキーズ」と契約。

公式戦の成績は、2勝2敗、被打率.331、防御率4.80であった。

独立リーグ・愛媛時代

2014年5月30日に四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに入団した。

2022年は選手登録時にはコーチから外れ、コーチ就任時には選手登録を抹消することが繰り返されており、「選手か専任コーチ」という待遇になっている。

2023年を以て現役引退。正田の引退により、東京ドーム時代の日本ハム戦士及び20世紀にプレーした選手は全員引退した。

引退後

2024年より、古巣・東京ヤクルトスワローズの二軍投手コーチに就任。

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