経歴
現役時代
関西大学から1959年に広島カープ(当時)に入団。ポジションは捕手。
しかし、早いうちに肩を壊してしまい、1961年に24歳の若さで現役を引退する。
選手生活はわずか3年であったが、彼の本領は引退後に発揮されることとなる。
広島コーチ時代
引退後、カープのスポンサーである東洋工業(マツダ)の社員となる予定だったが、引退翌年の1962年に二軍コーチに就任。25歳の専任コーチは現在も最年少である。
第一次阪急監督時代
1970年は野球解説者だったが、翌1971年に阪急ブレーブスのヘッドコーチとして、西本幸雄を補佐する立場になる。
1974年に37歳の若さで阪急の監督になると、1975年から1978年まで、リーグ4連覇・日本シリーズ3連覇を成し遂げる阪急黄金時代を築き上げる。
1975年の日本シリーズはこの年に初優勝した古巣である広島が相手で、1976年と1977年は長嶋茂雄率いる巨人が相手となる。
過去、阪急は巨人に対して0勝5敗と一度も勝てていなかったが、6度目の対戦にして初めて巨人に勝利した。
日本シリーズ3連覇は他に三原西鉄(1956~1958)、川上巨人(V9)、森西武(1986~1988、1990~1992)しかない。
1978年の日本シリーズはこの年のセ・リーグで初優勝したヤクルトスワローズが相手となった。
3勝3敗のタイで迎えた第7戦。ヤクルトの大杉勝男の大飛球がレフトポール際に飛び込むホームランとなったが、これを上田は「ファウルだ!」と抗議し、試合は1時間以上も中断する事態となる。
しかし判定は覆らず、上田は遅延行為を行ったとして退場処分となり、試合もヤクルトに敗れ4年連続日本一は果たせなかった。この責任を取り、上田は監督を辞任することになる。
第二次阪急監督時代
後を継いだ梶本隆夫監督が成績不振により辞任すると、1981年に再び阪急の監督に復帰。
なお、梶本は投手コーチとしてそのまま球団に残った。
1984年に5回目となるリーグ優勝を達成。この年はブーマー・ウェルズが外国人初の三冠王となった。
日本シリーズは1975年以来9年ぶりに広島が相手となる。率いる監督も当時と同じ上田と古葉竹識だった。
結果は3勝4敗で敗れ、1975年の雪辱を果たされる。
この年の優勝が阪急ブレーブスとして最後の優勝となった。(次の優勝は11年後の1995年。)
1988年、親会社の阪急がオリエント・リース(オリックス)に身売りされることが決まった。
この年の最終戦後のスピーチで「去る山田、そして福本」と発言したことで残るつもりだった福本豊が引退してしまう事態となった。
また、同年には南海ホークスもダイエーに身売りされ、「福岡ダイエーホークス」となった。
オリックス監督時代
チーム名が「オリックス・ブレーブス」に変わった1989年は南海から門田博光を獲得し、「ブルーサンダー打線」と呼ばれる強力打線で西武・近鉄との三つ巴に持ち込むが、近鉄にわずかの差で届かず2位となった。
翌1990年も優勝を逃したことで、上田は監督を辞任することを表明する。
なお、上田が去った1991年、オリックスはチーム名を「ブルーウェーブ」に変更する。
日本ハム監督時代
1995年、前年最下位に沈んだ日本ハムファイターズは、上田にチーム強化を託した。
1996年はかつて率いたオリックスと優勝を争うが、9月に「家庭の事情」と称して突如休養。結果は2位となったが、翌年に復帰。
1997年は、巨人から落合博満を獲得。また、当時ルーキーの小笠原道大を登用した。
1998年はビッグバン打線が猛威を奮い、前半戦は大差を付けての首位に立っていたが、後半戦になると大失速し西武に優勝を明け渡し2位。この年限りで落合が現役を引退した。
1999年は5位に終わり、この年限りで辞任した。
監督退任後
2003年に監督としての功績が評価され、野球殿堂入りを果たした。
その後は関西を中心に野球評論家、解説者として活動していたが、2017年7月1日に80歳で死去した。
評価
現役選手として大成できなかった人物が、監督として大成するという事例の代表として取り上げられる。
累計20年間の監督生活の中で1322勝(歴代7位)1136敗、リーグ優勝5回・日本一3回(すべて阪急時代)、Aクラス14回という成績を残した。
「ええで、ええで」が口癖だったことでも知られている。
余談
1996年の「家庭の事情」による休養騒動は、当時上田の娘二人(長女と次女)が統一教会に入信したことが関係している。実は上田は娘達を統一教会から脱会させることを誓って日本ハムの監督を引き受けたという経緯があり、脱会に失敗したことで「自分の娘も止められない人間がチームを引っ張っていけるわけがない」と自信を喪失したことが、監督辞任を表明する原因であった。しかし、当時の球団社長は「上田監督は球団のイメージダウンになると言うが、そうは考えていない」と述べ、上田の復帰を懇願。これを受けて一時休養していた上田も辞意を撤回して復帰した。