概要
1948年7月29日生まれ。秋田県出身。ポジションは投手。右投右打。
高校卒業後社会人野球の富士製鐵釜石(後に新日本製鐵釜石、1988年廃部。会社は新日鐵住金を経て現・日本製鉄)に入社、1967年のドラフト会議で、西鉄ライオンズから11位で指名を受けるが拒否。
1968年にから阪急ブレーブスに入団。この時練習中に脊椎分離症で腰を痛めており、チームに残ってリハビリに励む。腰痛から完治した1969年8月の都市対抗終了後、正式契約を結び入団。
山田が入団した頃の阪急は米田哲也、梶本隆夫、石井茂雄、足立光宏など一流投手が集まった投手王国だったため、このチーム内で活躍できるかどうか不安だったという。
だが、1970年に初完封勝利を挙げると、この年は10勝をマーク。名実ともに阪急の主力投手へと登り詰めた。一説によると、当時の彼の球速はアンダースローであったにもかかわらず、150キロ近くをマークしていたという。入団3年目の1971年には22勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。1975年から1986年まで12年連続で阪急の開幕投手をつとめ、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。阪急ブレーブス最終年の1988年に引退。
その他
- 1987年に2000奪三振を達成した時の相手は当時西武に所属していた清原和博だった。
- 中日ドラゴンズの投手コーチだった1999年、フォーム改造に取り組んでいた岩瀬仁紀につきっきりで指導。中日を代表するクローザーへと育て上げた。
- 2002には中日監督に就任。初年は3位だったが翌年は成績不振で9月に解任。(残り試合はヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行を務めて最終的に2位に。なお佐々木は1996年から1999年まで近鉄監督を務めた。)しかし、故障で不振だった平井正史を獲得し中継ぎの一人として復活させたこと、強肩だが内野守備に難がありポジションが固定されなかった福留孝介を外野にコンバートして強打の外野手に仕立て上げたこと、後に黄金の二遊間と言われる荒木雅博と井端弘和を辛抱強く使い続けたこと、FAで谷繁元信を獲得して正捕手を強化したこと等から、翌年以降の落合博満政権による黄金期の礎を築いたのは事実である。