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V9

ぶいないんまたはぶいきゅう

V9(ブイナイン、ブイきゅう)は、川上哲治監督の下、1965年から1973年までセリーグ及び日本シリーズを 9年連続で制覇した、読売ジャイアンツの黄金時代である。
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歴史編集

V9前史Ⅰ(1956~1960)編集

1950年に2リーグ制になってから、1955年までの6年間で4度のリーグ優勝・日本一に輝いていた巨人

(1950年松竹ロビンス1954年中日ドラゴンズが優勝。)

水原茂監督(1956年~1960年は「水原円裕(のぶしげ)」)の下で第2次黄金時代を築くが、1956年日本シリーズ三原脩率いる西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)に敗れ、初めて日本シリーズ敗退を味わい、さらに1957年1958年も日本シリーズで西鉄に敗れた。特に1958年は先に3連勝しながら、稲尾和久の前に第4戦から4連敗する屈辱で、この年を以って川上哲治が現役を引退した。

1959年も優勝しセリーグ5連覇を果たしたが、今度は南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)に4タテされた。

続く1960年は投手陣の不調と駒不足もあり、三原率いる大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)にリーグ優勝をさらわれ、水原はその責任を取って解任、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)の監督に就任した(※V9期間中の1969〜71年(V5〜V7)には中日ドラゴンズの監督にもなり、川上やヤクルト監督であった三原と鎬を削っていた)。


V9前史Ⅱ(1961~1964)編集

1961年より川上が監督に就任する。川上は長嶋茂雄王貞治を中心としたチームに整備し、チーム打率最下位(.2265)20勝投手なし(中村稔の17勝がトップ)という、当時としては珍しく貧弱な状態ながらも就任1年目にしていきなりリーグ優勝。日本シリーズでも南海を破り6年ぶりの日本一に輝いた。

続く1962年は王が一本足打法で本格的に覚醒するが、逆にチームは4位に低迷、ペナントは阪神に奪われた。(阪神はこれが2リーグ制になって初の優勝。)

1963年は2年ぶりにリーグ優勝。日本シリーズは56年から3年連続で敗れた因縁の西鉄が相手だったが、西鉄に初めて勝利し、2年ぶりの日本一。

日本中が東京オリンピックに沸いた1964年は王が当時のシーズン記録となる55本塁打を達成。(2013年東京ヤクルトスワローズウラディミール・バレンティンが49年ぶりに記録を塗り替え、60本塁打に伸ばしている。)しかし、阪神と大洋の一騎打ち状態にあったV争いに加わるとまでは行かず、またしても阪神に優勝を奪われた。


このように、川上政権初期の4年間は日本一と阪神優勝を交互に繰り返していたが、昭和40年代に入ると不滅の黄金時代に突入していく。


V10ならず、そして新たな時代へ(1974)編集

V9については後述で説明するため、先にV10を狙った1974年の戦いを振り返る。

開幕ダッシュこそまずまずではあったが、5月に4連敗するなどなかなか勝率が伸びず、中日と阪神の首位争いにも加われず、6月までは辛うじて勝率5割を上回るなど苦戦を強いられた。投手陣も前年23勝を挙げた左のエース・高橋一三が前半戦最終戦の7月17日にやっと初勝利を挙げる大不振(最終的にはこの年2勝11敗)、打撃陣でも長嶋茂雄が前年終盤に右手を負傷した影響からか打率.230前後の状態が続き、6月下旬からはクリーンアップから外れて1番を打つことも目立つようになった。8月に入ると10連勝するなどようやく復調の兆しを見せ首位に立つが、同じ頃中日も6連勝で巨人をぴったりマーク。9月上旬に4連敗を喫して7連勝の中日に首位の座を明け渡した巨人は、さらに中旬にも4連敗を喫し、中日との差が開いていった。10月になって6連勝で必死に追いすがった巨人だが、中日も5連勝で差が縮まらず、ついに10月12日に中日の優勝が決定。1954年以来20年ぶりの優勝が決まり、川上は14年間務めた監督業を退くこととなった。

皮肉にも中日を率いていたのは、川上が監督に就任したばかりの1960年オフに川上によって巨人を放出された与那嶺要であり、結果的に元同僚から引導を渡される形となった。

10月14日の中日戦を以って、長嶋茂雄が現役を引退することとなり、川上の後任となることが決定した。


「わが巨人軍は永久に不滅です!」


概要編集

後に巨人の第3次黄金時代かつ、究極の栄光期とも称される。この時代の巨人は、川上哲治監督のもと、王貞治長嶋茂雄という二人のスーパースター(いわゆるON砲)に加え、森昌彦柴田勲黒江透修高田繁土井正三といった名選手や、堀内恒夫高橋一三城之内邦雄といった球史に名を残す投手が揃い、バッテリー、内野、外野と全てにおいて選手配置が適した、正しく「精密機械」の様な守りに長けたチームで、日本におけるスモールベースボールの先駆けとなった。

V9と世相編集

V9が始まった1965年から1973年はちょうど日本の高度経済成長期と重なり、V9の終わりがオイルショック(石油危機)に重なることから、時代を象徴する出来事にもなっている。

当時の流行語は子供達の好きなものとして、「巨人・大鵬卵焼きという言葉が出来た(なお、アンチ巨人は「大人の好きなものは西鉄(現・埼玉西武ライオンズ)・柏戸ふぐちり(あるいは大洋(現・横浜DeNAベイスターズ)・柏戸・水割り)」と言っていた)。


特徴編集

第2次黄金時代を築いた水原茂の後を継いで監督に就任した川上は、選手個々の実力よりも、「ドジャース戦法」の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先し、1965年よりV9を達成した。川上監督の下には自己のチームデザインを実行する牧野茂などのスタッフと豊富な戦力が脇を固めていた。

V9の期間中、巨人は打撃に於いては9シーズン連続でセ・リーグの最多チーム得点であったが、巨人のチーム失点がセ・リーグ最少となったのは意外なことに1966年だけであり、当時の本拠地の後楽園球場が狭くて打者有利の球場であったことを差し引いてもV9時代の巨人は攻撃力中心のチームであったと見ることができる、典型的な打高投低のチームであった。打撃の個人タイトルから見ても、V9の期間中は最多本塁打と最多出塁数(1967年より表彰)を王が独占したほか、最多打点も王と長嶋の2人が占め(王が6回、長嶋が3回)、首位打者(王が4回、長嶋が2回)、最多盗塁(柴田が4回、高田が1回)を含めた43タイトル中、36タイトルを巨人の選手が獲得している(最多出塁数は1985年より最高出塁率に入れ替わる形で廃止。ちなみにパ・リーグでは1962年より最高出塁率のタイトルを導入していた。なお最多勝利打点は1981年~2000年まで(パでは1988年まで)、最多安打は1994年から導入されている)。

ただし、この当時の巨人は近年の巨人にみられるFA制度で獲得した一発に魅力のある選手に頼り切りのビッグベースボール(主に4番を打った長嶋が2度目の監督を務めた辺りからこの傾向が見られ始め、V9時代の右のエースだった堀内が監督を務めていた時期が特に顕著だった)ではなく、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を強固な守備で徹底して守る、いわゆるスモールベースボール方式の野球であった(ただし、森や田中久寿男高倉照幸柳田利夫広野功といった、ONに続く5番打者が有り余っている事態が多かった)。実際、V9期間中に規定打席に到達しての3割30本塁打を達成したのは王と長嶋の2人だけであった。

その一方で、投手陣については当時は現在のような先発ローテーションが確立しておらず、セ・パ両リーグ共に各球団のエースが先発・中継ぎにフル回転するのが当たり前の時代であったため、投手タイトルは最優秀防御率と最多勝利のタイトルそれぞれ2回ずつの獲得(投票で選ばれる最優秀投手(1967年より表彰)は3回獲得している)にとどまった(最多奪三振はパ・リーグでは1989年から、セ・リーグでは1991年から導入されている)。V9時代のエースだった堀内も、当時は自分と高橋一三しかいなかったと語っており、この2人が先発した2日後にはリリーフで登板するなど、フル回転でチームに貢献した。

V9時代の巨人で新人王を獲得したのはV2(1966年)の堀内、V4(1968年)の高田、V7(1971年)の関本四十四の3人である。なお1968年のドラフトでは山本浩二(広島)・星野仙一(中日)・田淵幸一(阪神)・山田久志福本豊(共に阪急)など、プロ野球史にも名を残すほどの名選手がプロ入りする程の史上屈指の大豊作の年だったが、悲しいことにこの年に巨人に入団した選手は誰一人レギュラーを掴めず、70年代の苦戦の遠因の一つにもなった。


日本シリーズでの戦績編集

9年間の日本シリーズでは、9年間で王手をかけられたことはなかったが、意外なことに4戦全勝の、いわゆるスウィープ勝ちをあげたこともなく、程よく強いチームではあった。

9年間の通算勝敗数は36勝13敗(勝率.735)である。

なお、1969年のV5までは、ホームゲームでの勝敗は7勝6敗と拮抗していたが、V6以降の4年間では10連勝しており、これは2018年の日本シリーズにおいてV9時代にも日本シリーズで激突した南海の後身の福岡ソフトバンクホークス(12連勝、2022年現在16連勝に伸ばしている)に更新されるまで日本シリーズにおける同一チームのホームゲーム最多連勝記録であった。


主な選手編集

投手編集










捕手編集



内野手編集








外野手編集







V9戦士のその後編集

選手としてV9を経験したことのあるプロ野球監督も多く、巨人以外の監督も含めると10人以上が挙げられる。独自の管理野球でチームを率いてヤクルトスワローズ西武ライオンズを日本一に導いた広岡達朗、川上野球を受け継ぎ1990年代の西武黄金時代を築いた森祇晶(昌彦より改名)、川上野球からの脱却を図ったり、「メークドラマ」と呼ばれる逆転劇を見せた長嶋茂雄、攻撃野球を目指して福岡ダイエー・ソフトバンク黄金時代の土台を築きあげ、長嶋との「ON対決」も実現させた王貞治、守備優先のチームを作った土井正三(オリックス・ブルーウェーブ)・高田繁(東京ヤクルトスワローズ)、「史上最強打線」を作った堀内恒夫など、V9戦士が監督をつとめたチームの特色は様々であった。また、V9戦士だった監督同士による対決も珍しくなかった。



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読売ジャイアンツ

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