概要
本名はウォレス・カナメ・ヨナミネ。愛称はウォーリー。
左投げ左打ち、ポジションは外野手
1951年に読売ジャイアンツに入団。野球の本場アメリカ仕込みの激しくも知的なプレーを持ち込んで日本野球に大きな影響を与えた。1961年に中日ドラゴンズに移籍するも翌年引退
監督としては1974年に中日ドラゴンズの監督としてリーグ優勝を経験している。
哲と呼べ!
チームメイトであり、かつタイトルを競いあった川上哲治が監督になった初年度、成績の下降と日本語下手を理由に戦力外通告された与那嶺は野球人生のすべてを打倒川上に捧げるようになった。
中日に移籍してからは鬼の形相で若手と混じって練習をし、巨人戦でホームランを打って川上を罵倒しながらホームインしたという。
監督に就任してもその敵愾心は強まる一方で、中日関係者がうっかり「川上さん」と呼ぼうものなら「哲と呼べ!」と叱り飛ばし、巨人戦前のミーティングでは「哲をやっつけろ!」と檄を入れ、劣勢になると「哲の野郎、畜生!」と悪態をつくなどどこまでも反川上を貫いた。
なお、彼の薫陶を受けた選手の中には同じく巨人に裏切られたあのお方もおり、ある意味で与那嶺は2000年代中盤まで中日が持っていた真の巨人のライバルという気風を作り上げた人物ともいえる。
アメフト選手としてのキャリア
来日前、1947年の1シーズンだけであったがサンフランシスコ・49ersでランニングバックとしてのプレイ歴がある。ウォルター・アチュー、アーサー・マツ以来となる、アジア系選手(非白人)のプロアメリカンフットボール選手となったが、この時の49ersはNFL加入前だった(AAFCに加盟していた)ためNFL公式戦への出場は無し。さらに手首を故障したこともあり、アメフトでのプロキャリアは1年だけで終わっている。