王・長嶋のON砲の概要
立教大学で当時の東京六大学野球リーグ記録である通算8本塁打を放ち、同期の杉浦忠投手(南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス))、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)、阪神タイガース)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ1957年の春秋リーグ連覇への貢献など、数多の実績を引っ提げて1958年に読売ジャイアンツ(以下、巨人)に入団していきなり打点王・本塁打王の2冠に輝き、新人王にも選ばれた長嶋茂雄と、選抜高校野球優勝投手の実績を引っ提げて早稲田実業高校から1959年に巨人に入団し、野手に転向した王貞治の2人は、巨人の第3次黄金時代かつ究極の栄光期とも称されるV9時代の主力選手としてばかりでなく、日本球界史に大きな足跡を残した選手である事は言うまでもないだろう。
一般的に「ON砲」と言えば、この王・長嶋のアベックホームランを指すことが専らである(Oh,Nagashima)。最初のアベックホームランは1959年6月25日に行われた後楽園球場での伝統の一戦でもある阪神との公式戦第11回戦、それもNPB史上プロ野球の公式戦としては2023年時点で唯一の天覧試合としても有名な試合で飛び出した。この試合では、長嶋が5回に同点の12号ソロ、9回には13号サヨナラ弾を放ち、王も7回に再び同点の4号2ランを放っている。最後のアベックホームランは1974年10月14日にこちらも同じく後楽園球場での中日ドラゴンズ戦とのダブルヘッダー第1試合となる第25回戦で、ここでは長嶋が4回に1点差に詰め寄る現役最後となる15号2ラン、王が7回にダメ押しの49号3ランを放った。
通算アベック本塁打は106本で、史上1位である。因みに2位は広島東洋カープの山本浩二・衣笠祥雄の「YK(Yamamoto,Kinugasa)砲」で、こちらは86本記録されている。
由来
「ON砲」の名付け親は巨人の永遠のライバル・阪神を贔屓にしている事でも有名なあのデイリースポーツで、当時MLBニューヨーク・ヤンキースの主軸打者であったミッキー・マントル、ロジャー・マリスを指すMM(Mantle、Maris)キャノンに倣って称されるようになった。なお、通常は3番に王、4番に長嶋を配置していたが、試合によっては打順を入れ替えて3番長嶋、4番王としていたので、NO砲とする案も検討されたが、そうすると「不発弾、空砲になってしまう」ということで却下された。
1980年、前年オフの「地獄の伊東キャンプ」で鍛え上げられた選手陣の躍動も空しく2リーグ移行後初めて3年連続で優勝を逃した責任を取って長嶋が監督を辞任、王も現役を引退して助監督に就任したことにより巨人におけるON時代は終焉を迎えたが、2人の功績を讃え後楽園球場では翌1981年から閉場の1987年までの7年間、1番ゲートを「王ゲート」、3番ゲートを「長嶋ゲート」と称した。後楽園球場が老朽化に伴う形で閉鎖され本拠地を東京ドームに移してからはこのゲートは一旦姿を消すが、1998年の同球場開場10周年を記念して復活。また後楽園球場閉場の際は一塁ベースは王、三塁ベースは長嶋にそれぞれ寄贈されている。
大谷・中田の「ON砲」
2010年代中頃、当時北海道日本ハムファイターズに所属していた大谷翔平(現:ロサンゼルス・エンゼルス)と中田翔(現:巨人)のコンビに対して「ON(Ohtani,Nakata)砲」「平成のON砲」の呼称が使われていた。