杉浦忠
すぎうらただし
高校時代は無名だったが立教大学進学後は同期の長嶋茂雄・本屋敷錦吾と3人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。
もともとオーバースローの速球投手であったが、大学2年の時にサイドスロー(アンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。その理由がメガネで、投球フォームの上下動が激しくが投げるたびにずれて苦労していたと言う。
東京六大学リーグ通算36勝(立教OBとして最多)の内大半が転向後の2年間に挙げたものである。
卒業後は日本ビール(現:サッポロビール)か朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団。(長嶋は巨人軍、本屋敷は阪急ブレーブスへ入団)
入団後は新人ながら開幕投手を務め、東映を相手に勝利投手となる。
地面ギリギリから浮かび上がるようなストレートと大きな横のカーブを武器にその年は27勝を挙げて新人王を獲得。
2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血マメをおして4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一にに輝いた。
1960年にも31勝をマーク。1961年5月には通算100勝を達成するが20勝を挙げた後連投による右腕の血行障害(動脈閉塞)により戦線離脱、手術を受ける。以後は後遺症に苦しみ1964年以降は二桁勝利がなくなる
1966年~1967年まで一軍投手コーチ兼任、1970年シーズン限りで現役引退。(通算187勝106敗)
現役引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家、近鉄バファローズの一軍投手コーチ(1974年~1977年)、再び毎日放送の解説者を経て1985年、古巣南海の監督に就任。
1987年は9月初めまで久々の優勝争いを演じたが1988年にチームはダイエーに売却され、福岡に移転後も、1989年まで監督を続けた。(南海ホークスとして最後の監督、ダイエーホークスとして初代監督)
翌年にフロント入りし、1994年に退職後は九州朝日放送(KBC)の解説者を務め人気を博す。
2001年よりプロ野球マスターズリーグ(現在はリーグ戦を休止)・大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。(3試合だけ代理監督も務める。)同年11月11日、遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで、急性心筋梗塞により急逝した。享年66。