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概要編集

1947年1月18日に京都市で生まれる。母子家庭で育ち、父親は駐留軍の黒人兵士とされるのが定説。衣笠自身は『週刊ポスト』1987年9月7日号の田原総一朗との対談で、父親が黒人兵という説を否定し、結論としては父親のことは知らないとしている。

1965年、平安高校から広島東洋カープに入団。高校では捕手だったが、監督の意向で内野手に転向した。


入団当初は期待されていたこともあり何度もアメ車で交通事故を起こすなどやんちゃの限りを尽くしていたが、遊びに行った岩国の米軍基地で、遊び仲間の兵士がベトナム戦争に出撃するという話を聞き「好きなことをやれるのに遊んでいること」を悔いたことや、関根潤三コーチの厳しい指導を受けたことなどもあり心を入れ替え、1968年から一塁手として1軍の試合に出場し徐々に成長。

1975年にジョー・ルーツ監督の指示により三塁手に転向。背番号は入団時の28から3に変わった。

山本浩二と共に打線の中核を担い、球団の初優勝に大きく貢献した。

オールスターゲームでは山本と共にアベックホームランを打ち、赤ヘル旋風を巻き起こした。

その後も山本浩二と共にチームの中心選手として五度のリーグ優勝と三度の日本一に貢献した。


入団当初の背番号28(鉄人28号)と頑健な肉体から『鉄人』の異名を持ち、1970年から連続試合出場を続け1987年にはルー・ゲーリッグの保持していた2130試合連続試合出場世界記録を破った。

同年には国民栄誉賞を受賞し、引退した。


1996年野球殿堂入り。現役最後まで使用した背番号3はカープの永久欠番である。

なお、この2年後に衣笠の世界記録はカル・リプケンJr.により破られるが、衣笠はアメリカに赴きリプケンを祝福。衣笠の死まで親交は続いた。


引退後はTBS野球解説者として活動し、優しく語りかけるような解説で親しまれた他、生い立ちと若い頃の遊びの中で親しむようになった洋楽の知識を生かし、思い出と洋楽を語るラジオ番組も受け持っていた。

2018年4月23日、上行結腸がんのため死去。71歳没。同月19日にBS-TBSで生中継されていたDeNA - 巨人戦に解説者として出演していたが、「なんだか辛そう」「声がかすれて聞き取りづらい」などとネット上で心配する声が上がっていた。

急遽補助要員として呼ばれた槙原寛己によれば、最後という覚悟で臨んでおり、終了後には握手を交わしたとのこと。


江夏の21球編集

1979年の日本シリーズ最終戦、9回裏のマウンドに上がったリリーフの江夏豊は無死満塁のピンチを招き、古葉竹識監督は延長戦に備えブルペンに若手投手を送り込んだ。

この時衣笠はマウンドに向かい、監督の采配に不満を抱きやる気を失いかけた江夏に「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」(山際淳司の小説では「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」となっている。)と言ってなだめた。

その後立ち直った江夏は見事最終回を無失点で切り抜け、チームに初の日本一をもたらした。


この時の衣笠の言葉に江夏自身感謝しており、衣笠逝去後「俺の宝」とまで言っている。

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