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概要編集

ルー・ゲーリッグとは1923年から1939年にかけてMLBチームのニューヨーク・ヤンキースで活躍した選手で、ベーブ・ルースと共にヤンキースの黄金時代を築いた選手である。数多くのタイトルを獲得しており、史上最高の一塁手と称されている。


経歴編集

プロ入り前編集

ゲーリッグは1903年6月19日ニューヨーク市で生まれる。コロンビア大学進学後に母親が肺炎を患ったことにより、ヤンキース入団を決断し、契約金で医療費を賄ったうえに残った費用で両親に初めて旅行をプレゼントした。


入団後編集

チームメイトだったベーブ・ルースからの指導もあって1925年にはレギュラーに定着し始めた。翌年には才能が開花し、16本塁打、112打点の好成績を残してワールドシリーズ進出に貢献した。1927年には、打率.373、47本塁打、175打点を挙げ、ルースと共にマーダラーズ・ロウ(殺人打線)と呼ばれ、この年のワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝で制覇し、アメリカン・リーグの年間MVPを獲得した。1934年には、打率.363、49本塁打、165打点を叩き出し、三冠王に輝いた。


野球人生の終焉編集

1938年シーズンから成績が下降線をたどり始める。次第にフィールド上で倒れるようになった。翌年のスプリングトレーニングで激しい練習をしても気力が戻らない上、身体が思うように動かなかった。ジョー・ディマジオによると、全ての動作がスローになり空振りが多くなったという。同年の成績は打率.143という自己最低の記録となった。さらには、筋肉のコントロールがつかず走ることが困難になる。

1939年4月30日ワシントン・セネターズ戦で2130試合連続出場を果たす。しかし、2日後の5月2日に自ら監督に「俺は下がるよ、ジョー」と伝えた。これにより、14年間にも及んだ記録は終わりを告げ、ヤンキー・スタジアムのアナウンサーは「皆さん、これは2130試合ぶりにルー・ゲーリッグが試合に出ない日です」と述べた。デトロイトの観客はスタンディングオベーションで記録の終焉を称え、ゲーリッグ本人は涙を浮かべていた。その後、ゲーリッグは医師から現在も特定難病の一つとされる筋萎縮性側索硬化症 と診断され、6月21日に引退を発表した。

1939年7月4日、ヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーを制定し、ゲーリッグを祝福した。また、ゲーリッグの背番号4をMLB史上初の永久欠番に指定し、チームに居続けられるようにした。(ヤンキースで背番号4を着用したのは彼だけである。)ゲーリッグはスピーチで、Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth.(今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています)と名言を残している。


晩年編集

引退後、米国野球殿堂の全米記者協会(BBWAA)はゲーリッグの病を考慮して、特例としてゲーリッグに対する特別投票が行われ、当時史上最年少の36歳で殿堂入りを果たす。しかし、病により式典に参加することはできなかった。

ゲーリッグは次第に歩行が困難になり、車椅子の使用も拒否したため寝たきりの生活を送ることとなった。この頃、発見されたばかりのビタミンEが奇跡を願って投与されたが、改善することはなかった。

1941年6月2日に筋萎縮性側索硬化症の悪化による呼吸器不全により37歳で死去した。38歳の誕生日の17日前だった。当時のニューヨーク市長の命により市旗を半旗として掲揚してその死を悼んだ。


墓はニューヨーク市郊外のケンシコ・セメタリーに建てられている。


記録編集

三冠王 1回

首位打者 1回

本塁打王 3回

打点王 5回

通算本塁打 493本

通算打点 1995打点(歴代5位)

2130試合連続試合出場記録(歴代2位)

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