概要
フルネーム | Randall David Johnson(ランドール・デイヴィッド・ジョンソン) |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州コントラ・コスタ郡ウォールナットクリーク |
生年月日 | 1963年9月10日 |
身長・体重 | 208cm、102kg |
投球・打撃 | 左投・右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1985年MLBドラフト2巡目(全体36位) |
メジャーでも稀な208cmという長身に、さらに少数派の左投げでその上サイドスローという変則ピッチャーの極みのようなスペックの持ち主ながら、最速164km/hのストレートと高速スライダーを投げ込んでくるという怪物投手。なお、この164km/hを記録したのは、40歳のシーズン(Dバックス在籍時)の出来事。この他、45歳でMLB通算300勝も(しかも299勝目から立直一発で)達成している。
「ぼくの考えたさいきょうのピッチャー」を地で行く男である。
経歴
6歳で野球を始めたが、幼少時から体が大きかったためにリトルリーグの入団テストの時には身分証明書の提示を求められたと云う。
高校時代の1982年にドラフト4巡目・89位でアトランタ・ブレーブスから指名されるも、契約せずに南カリフォルニア大へ進学した。大学時代のチームメイトにはマーク・マグワイアがいた。
1985年のドラフトでモントリオール・エクスポズから2巡目・36位で指名されたことを機にプロ入りした。
1988年9月にメジャーデビュー。同シーズン中に初完投・初勝利を挙げたが、制球難がネックとなり、翌1989年にシアトル・マリナーズへトレードされた。
1990年6月2日に自身キャリア初(マリナーズにとっても球団史上初)のノーヒットノーランを達成した。この頃は制球難を解消できず1990年から3年連続で与四球がリーグ最多だったが、ノーラン・ライアンと知り合い、制球力を向上させていく。
1995年はオールスターゲームで先発(なお、この年のナ・リーグの先発は野茂英雄)。10月にはマリナーズ史上初の地区優勝が懸かったタイブレイカーで完投勝利を挙げている。この年、自身初(これもマリナーズにとって球団史上初)のサイ・ヤング賞を獲得した。
1998年にトレードでヒューストン・アストロズへ移籍。同年オフにはアリゾナ・ダイヤモンドバックスと4年契約を結んだ。
Dバックスでは1999年の地区優勝、2001年のワールドシリーズ制覇に貢献。2001年はカート・シリングと共にワールドシリーズMVPに選出された。
2004年5月18日、対アトランタ・ブレーブス戦にてMLB史上最年長の40歳で完全試合を達成。ノーヒットノーラン自体、Dバックスでは球団史上初になった。
2005年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍。
2007年はDバックスへ復帰。
2009年にはサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。MLB史上24人目となる通算300勝を挙げ、この年限りで引退した。なお45歳での300勝到達は、46歳で達成したフィル・ニークロに次ぐMLB史上2位の年長記録である。
左腕史上最多となる5度のサイ・ヤング賞を受賞し、歴代2位となる4875奪三振を記録した。
イチローの前のマリナーズの背番号51である。なおヤンキース在籍時はバーニー・ウィリアムスが51を着けていたため、41を背番号にしていた。
2015年にダイヤモンドバックスの球団代表付特別補佐に就任。この年の記者投票で97.3%の票を得てアメリカ野球殿堂入りを果たし、「51」はDバックスの永久欠番になった。なおマリナーズがランディの名前で「51」を永久欠番にしないのは、イチローが殿堂入りするのを待っているからだと言われている。
所属球団
- モントリオール・エクスポズ (1988-1989)
- シアトル・マリナーズ (1989-1998)
- ヒューストン・アストロズ (1998)
- アリゾナ・ダイヤモンドバックス (1999-2004, 2007-2008)
- ニューヨーク・ヤンキース (2005-2006)
- サンフランシスコ・ジャイアンツ (2009)
余談
投げた球が飛んできた鳩に当たると云う珍プレー(または衝撃映像)がMLBファンの間で知られている。これは2001年のスプリングトレーニングで、サンフランシスコ・ジャイアンツとのオープン戦中に起きたハプニングであった。
実はランディ・ジョンソンと云う名前のメジャーリーガーは彼が史上3人目である。
1人目は1980年から1982年にかけてプレーした指名打者(ミドルネームはステュアート)、2人目はNPBの広島への在籍経験もある内野手(ミドルネームはグレン)だった。
さらに、NFLでも過去にランディ・ジョンソンと云う名前の選手が2人いる。
大学時代にはフォトジャーナリズムを専攻しており、野球選手となった後も写真愛が抑えられなかった彼は引退後プロのカメラマンに転身。アフリカの大自然やモータースポーツ、音楽コンサート等といった美しい場面をフィルムに収めている。
親日家としても知られ、新宿西口の中古レコード店でロックミュージックの海賊盤を買い求めている姿がたびたび目撃されている(『レコジャケ・ジャンキー!』(音楽出版社刊)より)。上記のカメラマンとしての活動でも日本で撮影したと思われる作品が数点ホームページに掲載されている。