概要
フルネームはジャック・ルーズベルト“ジャッキー”・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson)。
アメリカ合衆国メジャーリーグのプロ野球選手で、ポジションは二塁手・一塁手。所属チームはブルックリン・ドジャース(現:ロサンゼルス・ドジャース)。
1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立され、黒人差別が酷かった当時のMLBで、アフリカ系アメリカ人選手として1947年にメジャーデビューして活躍し、有色人種のメジャーリーグ参加の道を切り開いた、偉大なるパイオニアである。
一般には「黒人初のメジャーリーガー」と言われるが、これは厳密に言うと、MLBが上述の有色人種排除の体制を整えた1900年以降の「近代メジャーリーグ」を対象とした言い方で、アフリカ系アメリカ人で初のメジャーリーガーは、1884年のモーゼス・フリート・ウォーカーであり、ジャッキーは彼以来63年ぶりのメジャーデビューを果たした。
デビューシーズンでは一塁手として、打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年から制定された新人王を受賞した。
1957年に、ニューヨーク・ジャイアンツへの移籍話が持ち上がったものの、ロビンソンはドジャースに在籍し続けることに拘り、これを拒否する形で現役を引退。ドジャース一筋の現役生活を貫き通した。
現役引退後は、当時全米各地で盛り上がりを見せていた公民権運動にも積極的に参加した。
その一方で、糖尿病をはじめとする数々の病魔にも悩まされ(晩年には右目を完全に失明していた)、長男を交通事故で失うなど苦労も多かったとされる。
1972年10月15日、ワールドシリーズ開催に伴い行われた式典および始球式に参加したのが公に見せた最後の姿となった。
9日後の10月24日、スタンフォードの自宅で死去。53歳の若さだった。
1962年には、1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で、野球殿堂入りを果たし、彼の死後、1972年には彼の背番号『42』は、ロイ・キャンパネラの『39』、サンディー・コーファックスの『32』の背番号と共に、ドジャースの永久欠番に制定され、1997年にはMLB全球団の永久欠番となった。
彼が選ばれた理由
彼が選ばれたのは、彼が最高のニグロリーグ(黒人リーグ)選手であったからではなかった。
当時のニグロリーグには、伝説的な逸話に彩られた大投手サチェル・ペイジ、「黒いルース」と言われ一説には1000本に迫る本塁打を記録したジョシュ・ギブソンなど実績抜群の選手がおり、彼らから見ればロビンソンは超新星であったものの黒人選手の第一人者とは言い難かった。
しかし、ペイジは39歳と現役選手としては高齢の域に差し掛かっており、一方のギブソンも酒浸りを問題視されて見送られることになる。
対するロビンソンは年齢もまだ若く、陸軍で幹部候補生として勤務していたことから品行を信頼できると判断されて契約を勝ち取った。
というのも、当時野球は紳士のスポーツであるとされ、それが黒人を排除する理由を正当化していたため、最初の黒人選手は実力と年齢だけではなく品行方正な人物であることが求められたからだった。
ロビンソンが白人から受けていた悪評は「差別に敏感」ということだけだったという。
面談の際、リッキーは「やり返さない勇気をもつのだ」と説き、次いでロビンソンの頬を殴ったが意図を理解したロビンソンは「頬はもうひとつあります。ご存知ですか?」と答えたというエピソードが有名だが、これは日本で出版された野球雑誌によって流布したもので、実際は「君は酷い差別を受けても怒りを抑えられるか?」と問うと、ロビンソンは苛立ちながら「貴方は反撃することを恐れる(従順な)黒人を探しているのですか?」と反論してから最初のリッキーの言葉が続くという流れになったというのが正しい。
いずれにせよ、彼の紳士ぶりはマイナー入りした時も変わらず、観客が撒き散らしていた罵声を次第に歓声に変えていき、当初は「黒人は人間ではない」とまで公言していた監督が最終的に握手を求め「君は素晴らしい選手であり、紳士だ」と認めたほどだった。
彼の遺した功績
先述のとおり、彼の終始一貫した「やり返さない勇気」は野球界の常識を変え、有色人種抜きでは考えられない現在のメジャーリーグの礎を築くことに貢献した。
現在のメジャーリーグでは、黒人はもちろん、ヒスパニック系、アジア系等様々な人種の選手が活躍している。また、アメリカ人以外のメジャーリーガーの活躍も増えており、日本人選手とて例外ではない。ロビンソンの活躍がなければ、野茂英雄のメジャー挑戦に端を発した日本人選手たちのメジャーリーグでの活躍(イチローのMLBシーズン最多安打記録の更新や、大谷翔平のメジャーでの投打二刀流の大活躍等(※))もなかったかもしれないのだ。
※ ちなみに、何の因果か、野茂と大谷はドジャースに在籍していた時期があるため、名実共にロビンソンの後輩となっている。
加えて、野球の国際的な普及も大幅に遅れていた可能性があり、下手をすればプレミア12やWBC等の野球の国際大会が今日存在していなかったことすらあり得たかもしれない。
その後、メジャーリーグをすべての人々に門戸を開いたスポーツリーグに生まれ変わらせたロビンソンの功績をたたえ、彼の背番号「42」は、メジャーリーグ全球団にとって偉大な番号となり、1997年に全球団共通の永久欠番に指定され、2004年には、MLBは4月15日を『ジャッキー・ロビンソン・デー』と制定し、2007年のロビンソン・デーでは、ケン・グリフィー・ジュニアのコミッショナーへの提案によって、希望する選手全員が背番号『42』の付いたユニフォームを着用して試合に出場し、以降も継続している。
2013年、彼を題材とした伝記映画『42〜世界を変えた男〜』が公開され、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた。
2014年には、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)が、ロビンソンの名前を同校のスポーツ施設の総称に冠すると発表した。
このように、ロビンソンは死後もMLBだけでなくアメリカ社会に大きな影響を残し続けていると言える。
備考
知的で紳士的な人物というイメージが先行している、が実は軍隊にいた時にジム・クロウ法によるバスの席移動を強制された時にガンと拒否した結果、軍法会議になったことがあるなど、前述の「差別に敏感」という白人からの評判に違わない強気な一面も持っていた。
軍隊経験があったため若干軍事色のある人物で、例えばモハメド・アリのベトナム戦争における兵役忌避を黒人代表レベルで痛烈に批判していた。
余談
日本のプロ野球において、助っ人外国人が盛んに背番号42を付けているのは、日本では「死に」に通じる縁起の悪い番号で敬遠されがちだったのに対し、アメリカでは特別な日以外は絶対に付けられない、栄誉ある番号だからである(特にMLB経験者ほどその思いは強いとされる)。
詳しくは野球の永久欠番一覧を参照。
映画
この映画でロビンソンを演じたのはチャドウィック・ボーズマン。
ボーズマンは癌により2020年8月28日にこの世を去ったが、奇しくも、当年はコロナ禍の影響でロビンソン・デーが8月28日に振り替えられていた。
関連タグ
ウェイン・グレツキー(NHL全チームで「99」が永久欠番になった人物)