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NPBにおける永久欠番編集

セ・リーグでは現存球団のうち4球団、計13人の背番号が20世紀に永久欠番になっていたのに対してパ・リーグは2000年までに近鉄の1人で、同球団合併により一時的にパでは制定している球団がなかったことになる。パ・リーグの現存球団の永久欠番は全て21世紀の制定で近鉄消滅の2004年以降のもの。

読売ジャイアンツ編集

1王貞治(一塁手)3長嶋茂雄(三塁手)4黒沢俊夫(外野手)
14沢村栄治(投手)16川上哲治(一塁手)34金田正一(投手)

※黒沢は1947年のシーズン中、腸チフスを発病し6月23日に急死(享年33)。また沢村は1944年に戦死。二人の背番号が1947年に日本野球界初の永久欠番に指定。

※川上は認定後、コーチ及び監督を務めた1959年〜1964年に使用した。

※長嶋は認定後、第二次監督時代の2000年〜2001年に「3」を使用した(広島から移籍した江藤智に自身が着用していた背番号「33」を譲った為)。

※上記の永久欠番は傘下クラブチームの読売ジャイアンツ女子においても適用されている。


阪神タイガース編集

10藤村富美男(三塁手)11村山実(投手)23吉田義男(遊撃手)

※10番は球団創設以来藤村しかつけておらず、1人の選手しか着用せずに永久欠番になった唯一の事例。

※村山は認定後、第二次監督時代の1988年〜1989年に「11」を使用した。

※読売女子と異なり、傘下クラブチームの阪神タイガースWomenには上記の永久欠番を適用していない。


中日ドラゴンズ編集

10服部受弘(投手・捕手)15西沢道夫(一塁手・投手)

※服部は認定後、二軍監督時代の1977年に使用した。

※西沢は認定後、ヘッドコーチ及び監督時代の1963年〜1966年に使用した。


北海道日本ハムファイターズ編集

100大社義規(日本ハム球団初代オーナー)

※1981年のリーグ優勝の胴上げの時に着ていたユニフォームの背番号が100番。球団オーナー着用によって永久欠番になった唯一の事例。


広島東洋カープ編集

3衣笠祥雄(三塁手)8山本浩二(外野手)15黒田博樹(投手)

※山本は認定後、第二次監督時代の2001年〜2005年に使用した。

※黒田の「15」は、認定前の2008年のMLB移籍から2015年の広島復帰までの間も欠番状態だった。


埼玉西武ライオンズ編集

24稲尾和久(投手)

※1972年の当人着用終了から2012年の欠番認定まで実に40年を要しており、その間に秋山幸二など複数人が着用している。前身球団の功績を親会社の異なる後継球団が認定した初の事例でもある。

※傘下クラブチームの埼玉西武ライオンズ・レディースには適用していない。


千葉ロッテマリーンズ編集

26ロッテ・ファン

※厳密には永久欠番ではないが、試合でベンチ入りできるのは25人までで、それに次ぐ数字をファンのための番号として球団が制定。ただ、これについては異説があり、2005年に制定されたが、かつてロッテに所属して背番号26を付け、シーズン最多奪三振を記録した小川博が引退後の2004年(つまり制定の前年)に重大な事件を起こしたため、チームメイトは付けられないようにしたのではないかと、まことしやかに囁かれている。本当だったとしてそんな理由でファンのための番号にしたなんて球団は認めないだろうが。


東北楽天ゴールデンイーグルス編集

10イーグルス・ファン77星野仙一(監督)

※スターティングメンバーは9人であるためそれに次ぐ数字をファンの番号として制定。10番は球団創設時に永久欠番としたため、創設以来10番をつけた選手・監督・コーチはいない。なお、楽天は指名打者制のパ・リーグであるため選手交代なしでは最低で10人出場する。

※77番は監督時の着用のみで永久欠番になった唯一の事例。


福岡ソフトバンクホークス編集

15藤井将雄(投手)

※厳密には2024年7月時点で永久欠番ではないが、チーム在籍中の2000年10月13日に31歳の若さで死去したため、以後、つける選手がおらず、球団も将来的に永久欠番にすることを示唆している。


その他編集

かつて存在していた大阪近鉄バファローズ鈴木啓示が使用していた背番号1を永久欠番としていたが、2004年のオリックス・ブルーウェーブとの合併に際し鈴木はオリックス側に永久欠番を辞退することを申し出たため、永久欠番が解消された。


準永久欠番(名誉番号)編集

厳密に永久欠番と認定されていないが、前任者の功績を讃えて相応しい選手が出るまで欠番とする番号、当人の復帰に備えて使用しないことにする番号など、何らかの理由で欠番状態になっている番号をさす。


オリックス・ブルーウェーブに所属していたイチローの背番号51は「誰も畏れ多くてつけたがらない」という理由で事実上の永久欠番となっており、ブルーウェーブからバファローズに変わった現在でも同様。イチローが恩師と仰ぐ仰木彬ですら、オリックス・バファローズの監督に就任する際、イチロー本人から「51」を付けて欲しいと言われたが上記の理由で固辞している。

この他、日本ハムの「11」ダルビッシュ有大谷翔平に匹敵する選手が出るまで欠番)、ソフトバンクの「89」(王貞治の監督としての功績による)などがある。


背番号継承制編集

東京ヤクルトスワローズでは永久欠番は認定せず、背番号に相応しい後継者が現れた際に継承するスタイルを貫いている。

代表的な例として、「小さな大打者」と称えられた「ミスタースワローズ若松勉が付けていた「1」は、「ミスタースワローズ」に相応しい選手が付ける番号として継承されている。

1978年に球団初の日本一に輝いた際の主砲大杉勝男が付けていた背番号「8」は、1983年に保留欠番となり翌1984年大杉の引退と共に欠番となったが、1985年に広沢克己(現・広澤克実)が使用する事になり欠番は解消した。

選手兼任監督も務めた古田敦也の背番号「27」は、古田の引退後は球団又は古田が相応しいと推薦する人物が現れるまで準永久欠番として扱われていたが、2022年シーズンから古田と同じ捕手の中村悠平が古田の承認を得た上で継承した。


横浜DeNAベイスターズ「18」は、長きに渡って着用した三浦大輔の功績を讃えて球団より「横浜ナンバー」と認定され、「チームを牽引し象徴となるべき存在がつける番号」として事実上の継承制を敷いている。


中日ドラゴンズの「20」杉下茂が付けていたため、権藤博星野仙一小松辰雄宣銅烈とエースナンバーとして継承されていった。


また、オリックス・バファローズの「7」は世界の盗塁王といわれた福本豊が現役時代に付けていた番号であるが、本人が永久欠番提案を固辞。その後、進藤達哉がFAで加入したのがきっかけで、糸井嘉男吉田正尚西川龍馬などチームの顔となった選手やFAで加入した注目選手に継承されている。


MLBでの永久欠番編集

MLBでは数多くの永久欠番が存在し、各球団全ての永久欠番を書いていくと、とんでもない数になってしまうので、ここでは特筆すべき2名に絞って説明する。

ちなみに、MLBにおいては複数の競技者を讃えた永久欠番や番号のない選手の永久欠番というものも存在していたりする。

全球団共通編集

42ジャッキー・ロビンソン(二塁手・一塁手)

MLB史上初の黒人選手。ブルックリン・ドジャース(現 ロサンゼルス・ドジャース)にてフランチャイズ・プレイヤーとして根深い人種差別にも屈さず戦い続けた事を顕彰し、1972年にドジャースの永久欠番に制定。その後、彼がMLBデビューしてから50年の節目となる1997年4月15日に全球団共通の永久欠番に制定された。

なお、制定当時に『42』を着けていた選手に限っては特例で着用の継続が認められており、最後にMLBの公式な番号として『42』を着けていたのはかのマリアノ・リベラである。この為リベラが所属していたヤンキースではリベラとロビンソンの連名での永久欠番とされている。

現在では4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定し、全球団全選手がその日だけロビンソンの42番を背負う。また、NPBに助っ人外国人として来日した選手がよく42番を付けたがるのはこれが理由なのだという。

ニューヨーク・ヤンキース編集

野球界における、世界初の永久欠番選手。衣笠祥雄に抜かれるまでは世界記録だった2130試合連続出場記録のほか、三冠王をはじめとした打撃タイトルを多数獲得し、「歴代最高の一塁手」「鉄の馬(アイアン・ホース)」「打撃王」等と称されるが、1938年のシーズン中に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病に倒れ、自らの限界までチームに帯同するものの力尽き、引退を余儀なくされてしまう。引退後、ヤンキースはその栄誉を讃え、1939年7月4日に背番号「4」を永久欠番として制定した。同日に行われた引退式典にてゲーリッグが行った「私はこの世で最も幸せな男です」のスピーチは、今なおMLB史屈指の感動の場面として語り継がれている。

その他の永久欠番編集

独立リーグ編集

新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ編集

22高津臣吾(投手・監督)

石川ミリオンスターズ編集

12木田優夫(投手)34森慎二(監督・コーチ・投手)

※森は2017年、西武コーチ在任中に急逝後制定。

高知ファイティングドッグス編集

0梶田宙(監督・コーチ・投手)

※梶田は四国アイランドリーグplus発足時の選手で最後まで残り、実働10年。

愛媛マンダリンパイレーツ編集

77弓岡敬二郎(監督)

兵庫ブルーサンダーズ編集

17山川和大(投手)27薬師神真之(内野手)50向谷拓巳(内野手)
66山崎章弘(監督)77田中耀飛(外野手)

※山川と向谷は初めて2016年のドラフト会議で育成選手指名されプロ野球入り(山川は巨人、向谷は楽天に入団)。薬師神は2017年シーズン中に急逝。山崎はチーム創設以来指導に携わり功績により制定。田中耀飛は2017年にリーグ史上初の支配下登録枠で楽天に指名されプロ野球入り。


アマチュア野球編集

野球日本代表(日米大学野球選手権大会)編集

13東門明(三塁手)

早稲田大学の三塁手。1972年の第1回大会で送球を頭部に受けて急死。早稲田大学野球部東京六大学野球連盟)でも、東門の背番号9を永久欠番とした

國學院大學(東都大学野球連盟)編集

38彬子女王(皇族、三笠宮家)

2016年に同学の特別招聘教授に就任し、同年9月21日の秋季リーグ戦(対東洋大学)にて始球式を務めたことによる。38は「宮(ミヤ)家」にちなむ。

野球中華民国代表編集

中日ドラゴンズ台湾プロ野球で活躍。後に許銘傑(元西武・オリックス所属)、羅嘉仁らが使用したこともある。(現在は日本に帰化)

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