1971年にドラフト3位でヤクルトアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団。1989年に引退するまでチームを引っ張ってきた、「小さな大打者」。
スワローズ出身者として唯一選手(78)・コーチ(97)・監督(01)で優勝かつ日本一を経験している。
2001年セリーグ優勝の際、本来「ファンの皆様、ありがとうございます」というところを緊張のあまり「ファンの皆様、本当にあの〜、あの…、おめでとうございます」と言ってしまった(何故かそれがその年の流行語大賞に選ばれてしまった。)。
しかし本人は後に「『ありがとうございます』よりも『おめでとうございます』の方がより感謝の気持ちが伝わる」として、言い間違いではない事を述懐している。もっとも、その後にも「オールスターでも・・・いや、日本シリーズでも」とコメントを言い直している場面があるので、真偽は定かではない。
ちなみにこの「おめでとうございます」は、当時選手だった真中満及び高津臣吾がそれぞれ監督としての優勝インタビュー時に発言しており、監督の伝統芸になりつつある。
2001年の胴上げの際に石井一久達の悪ふざけで一回転するはめに。そのとき、腰を痛めてしまったらしく退任セレモニーの際の胴上げも当初は固辞していたらしい。
一説ではトレイ・ヒルマン監督の後任として北海道日本ハムファイターズの監督にという話が一部地元で盛り上がったがその腰のために断ったと言われているが詳細は不明。
2004年に球界再編騒動が勃発した際は、管理職である監督にもかかわらず選手会の署名活動に参加し、自身も大阪近鉄バファローズのオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併反対の署名をした。選手会長であると共にチームの主力選手である古田敦也が球団消滅回避に向け日々奔走しているのを見て、少しでも力になりたいから協力したと後に述べている。
監督退任後の2011年から2021年まで毎年春季キャンプで臨時コーチを務めていた。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
57 | 1971年 | ヤクルトアトムズ | 選手 |
1 | 1972年〜1973年 | ヤクルトアトムズ | 選手 |
1 | 1974年〜1985年 | ヤクルトスワローズ | 選手 |
1 | 1986年〜1988年 | ヤクルトスワローズ | 選手兼任打撃コーチ補佐 |
1 | 1989年 | ヤクルトスワローズ | 選手兼任1軍打撃コーチ |
75 | 1993年〜1994年 | ヤクルトスワローズ | 1軍打撃コーチ |
75 | 1995年〜1996年 | ヤクルトスワローズ | 2軍監督 |
75 | 1997年〜1998年 | ヤクルトスワローズ | 1軍打撃コーチ |
75 | 1999年〜2005年 | ヤクルトスワローズ | 1軍監督 |
現役時代の背番号「1」は、引退後ヤクルトを代表するバッターが彼の二つ名「ミスタースワローズ」と共に受け継いでいく番号となり、池山隆寛、岩村明憲、青木宣親、山田哲人に引き継がれている。