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サッカー界の永久欠番編集

サポーターを12番目の選手にたとえる意味で12番を欠番とするチームが複数存在する。Jリーグでは2015年シーズン現在浦和レッズと後述の理由で17をサポーターナンバーとしているサガン鳥栖以外全チームで採用しているが、日本では永久欠番とはされない。欧州ではフェイエノールトなど永久欠番扱いとなっているチームも存在する。

サッカーの場合、長い歴史の割には永久欠番の数は少ないが、最近では在籍中に死亡した選手の番号を永久欠番にする不幸なケースが増えている。ただしナショナルチームにおける永久欠番制度は国際サッカー連盟(FIFA)に認められていない。


現在の永久欠番の選手。編集

日本のサッカー編集

Jリーグ

選手兼任の初代監督としてチームをJリーグ昇格に導いた功績により、2005年制定。


2010年まで在籍し、2011年はJFL松本山雅FCに在籍したが、同年8月の練習中に急性心筋梗塞により倒れ2日後に急逝。同月12日にJ1初の永久欠番に指定。なお2011年シーズン当初から3番は空き番号だった。元サッカー日本代表


2013年11月、選手兼任監督を退いた際に制定。 元サッカー日本代表


13桐山周也

ジュニアユースに所属していた選手であったが、2010年に遠征中に立ち寄った海水浴場水難事故に遭い急逝。事故再発防止を誓う意味を込め、2011年にすべてのチームカテゴリーにおいて13を永久欠番とした


5不明

2001年のJFL加盟当初から永久欠番に指定しているが指定理由は公表されていない。これは(ガイナーレの)前身のクラブで現役中に亡くなった選手の着けていた番号であると思われる(選手名は不明)。


17坂田道孝

Jリーグ初の永久欠番。当時、佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長。1994年、静岡県浜松市にあった「PJMフューチャーズ」を佐賀県鳥栖市に誘致し、「鳥栖フューチャーズ」を発足させた。クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖フューチャーズ消滅後も、再設立活動に尽力し、チームを復活させた鳥栖最大の功労者。

2000年1月7日逝去(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で2005年1月30日に17番を永久欠番に制定)。

また、当時J2のベンチ登録選手が16人(2010年より18人に拡大)であることからサポーターをそれに次ぐ「17番目の選手」としてサポーターズナンバーも兼ねている。


その他

  • アルテ高崎(JFL・解散)
30加藤康祐

2005年2月、練習中に心室細動を起こし急逝。彼の功績を称えて彼が付けていた30番を永久欠番に指定。

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