概要
福岡ソフトバンクホークスの前身、福岡ダイエーホークス時代に所属していた投手。
1994年ドラフト会議で、ダイエーから4位指名を受けて入団。
当初は先発だったが、1997年から中継ぎへと転向。翌1998年には右の中継ぎエースとして君臨し、1999年には26ホールドを記録して最優秀中継ぎ投手を獲得。同年にチームは福岡移転後初優勝をし、入団当初の目標であった「王監督を胴上げする」ことを達成した。
しかし、この年からマウンド上で咳き込むなどの症状が見られるようになる。登板過多による疲れと思われていたが、日本シリーズ直前に行われた検査で異常が見つかり、この時点で「余命3ヶ月の末期肺癌」と診断されていた。この診断結果は藤井本人に知らされず、間質性肺炎と公表された。家族以外で本当の病名を知っていたのは、王や若田部健一をはじめとするごく一部の人物のみだった。
2000年に福岡ダイエーがV2を達成したのを見届けた後、帰らぬ人となる。31歳という若さだった。この年の日本シリーズ(巨人対ダイエー)では、第1戦の先発投手を工藤公康(巨人。前年までダイエーに所属)と若田部(ダイエー)が務め、2人は藤井の右肩の遺骨をしのばせて投げ合った。
なお、2005年にホークスはダイエーからソフトバンクへ親会社が変わったが、彼の付けていた背番号15は現在に至るまで準欠番扱いである。