経歴
1982年名古屋電機高校(現・愛工大名電)から西武ライオンズに入団。渡辺久信らとともに、西武黄金時代の柱としてチームを支えた。当時は「新人類」の代表格であったとされた(わかりやすく言えば「いまどきの若い者」と言われた方である)
1995年、FA権を行使して福岡ダイエーホークスに移籍。2000年、再びFA権を行使して読売ジャイアンツに移籍。2004年に200勝を達成(この試合でプロ入り後初となるホームランを打ち、決勝打となった)し、名球会入り。
2007年に門倉健の人的保障として、横浜ベイスターズに移籍。同年の巨人戦で勝利投手となり全球団勝利+13球団勝利(近鉄バファローズと東北楽天ゴールデンイーグルスに勝利)を達成。
2010年には16年ぶりに古巣西武に復帰するも、成績不振もあり、同年秋に戦力外通告を受ける。2011年に引退。現役生活は29年におよび、晩年は山本昌とともに「中年の星」として活躍した。
引退後は解説者に転身。2015年に福岡ソフトバンクホークス監督に就任し、打撃陣は柳田悠岐、中村晃、長谷川勇也など、凄い生え抜きが次々に育ちつつあった一方生え抜きの投手が今一つとされているホークスの弱みを解消することが期待されていた。
在任時は千賀滉大、二保旭、石川柊太、高橋礼、甲斐野央、森唯斗などの投手陣が台頭し、アルフレド・デスパイネ、リバン・モイネロ、ジュリスペル・グラシアルなど助っ人陣が当たり、ほぼ全ての年度でAクラス入り、3度のリーグ優勝、4度のセ・パ交流戦優勝、5度の日本一達成と投手出身監督として優秀な成績を残す。
しかしながら、2021年は一転して、千賀や高橋、長谷川、モイネロ、グラシアルなど一部の主力選手の長期離脱の影響もあって不調から抜け出すことができず、セ・パ交流戦も同年のパリーグ最下位であった北海道日本ハムファイターズを下回る第11位に転落するなど、シーズン中はBランクのまま低迷。これまでの成績から来季以降の続投も期待されていたものの、工藤本人の強い意向もあり、契約満了であったことなどから成績不振の責任を取り、同年限りでの辞任を表明した。
子供が5人(2男3女)おり、長男に俳優の工藤阿須加、長女にプロゴルファーの工藤遥加がいる。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
47 | 1982年〜1994年 | 西武ライオンズ | 選手 |
21 | 1995年〜1996年 | 福岡ダイエーホークス | 選手 |
47 | 1997時〜1999年 | 福岡ダイエーホークス | 選手 |
47 | 2000年〜2006年 | 読売ジャイアンツ | 選手 |
47 | 2007年〜2009年 | 横浜ベイスターズ | 選手 |
55 | 2010年 | 埼玉西武ライオンズ | 選手 |
81 | 2015年〜2021年 | 福岡ソフトバンクホークス | 1軍監督 |
プレースタイル
「左投手の理想形」と称えられた美しい投球フォームから、最速149km/hのストレートと目一杯スピンの効いたカーブとのコンビネーションを主体にスライダー・シュートも加え投球を組み立てる。シュートは他の変化球に比べ見劣りするものだったが「『シュートを投げてくる』と思わせることで打者が詰まってくれることもある」と言い使い続けた。
エピソード
- ホークス時代の女房役城島健司を育て上げた1人。新人時代の城島に厳しく接し、全く口を利かない事もあった。ある時工藤の部屋を訪ねた城島に対し、部屋の中から「今いない」と答えるという斬新すぎる居留守を使った事もある。また城島の要求にわざと首を傾げたり何度も確認する素振りを見せ、要求通りに投球しバッターに打たれると「そら見ろ」と言わんばかりのリアクションを取ることもしばしばあった。この件については城島が後に「工藤さんがバラしている」と冗談混じりに反論している。しかし工藤のスパルタが城島を球界随一のキャッチャーに成長させ、解説者として城島をインタビューした際には「認めてもらえて嬉しい」と感謝されている。
- 現役を引退した2011年に、横浜ベイスターズ改め「横浜DeNAベイスターズ」初代監督への就任要請が高田繁GMからなされていた。工藤の現役引退及びベイスターズの親会社変更が決まっていた時期であり、工藤監督誕生は秒読みの段階まで話は進んでいた。しかし工藤側からは西武時代の同僚鹿取義隆や後にホークスでヘッドコーチに就任する達川光男の入閣を要請したもののフロント側がこれを拒否した事が決定打となった為破談、球団が工藤の保険として交渉していた中畑清が初代監督に就任する事となった。
- 現役時代はホークス移籍直後と現役最晩年以外は背番号「47」を背負い続けた為、「47」は左腕のエースが付ける番号のイメージが定着した。