概要
1945年7月24日生まれ。
1967年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
1年目の1968年は開幕2戦目から1番打者・中堅手として起用され、6月末には高倉照幸に代わり左翼手に定着。規定打席には届かなかったが、打率.301、23盗塁を記録して新人王を獲得。
2年目の1969年にはリーグ4位の打率.294で、初のベストナイン(外野手)に選出された。1971年には38盗塁を記録し、柴田勲を抑え初の盗塁王となる。
俊足・強肩・強打と走攻守の三拍子揃った外野手として、V9時代の巨人を支えるが、1975年は打撃の低迷に苦しみ、淡口憲治の台頭もあってシーズン後半には出場機会が減る。
1976年開幕から三塁手として定着。1979年までレギュラーを守るが、1980年には中畑清に定位置を譲り、主に左翼手として出場。同年引退。
引退後
日ハム、巨人、ヤクルトの監督・コーチなどを務めた。
2011年12月5日、横浜DeNAベイスターズがゼネラルマネージャー(GM)を新設したのに伴い、その初代GMに正式に就任。2018年退任後はディー・エヌ・エーのフェローに就任し、経営陣へのアドバイスなどを行う活動に従事する
監督・コーチ歴
日本ハムファイターズ (1985 - 1988)監督・GM
読売ジャイアンツ (1992, 1996 - 2001)コーチ・二軍監督
東京ヤクルトスワローズ (2008 - 2010)監督
人物
気が強い人物として有名で、大学時代は御大と呼ばれ鉄拳制裁で有名だった島岡吉郎監督から可愛がられ在学中一度も殴られなかった。同じく殴られなかった闘将星野仙一ですら「温厚そうだなんてとんでもない、本当の高田さんを知らないだけだよ」と言わしめたり、1976年に浪商の先輩である張本勲に「巨人では俺の方が先輩」と言い対等な口を聞いたりした。またヤクルト監督時代にも「ファーストの男」「論ずるに値しない」「頭を割って、中を見てみたい」と記者陣に言い放つなど畏怖された。