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中畑清

なかはたきよし

元プロ野球選手(内野手、主に三塁手・一塁手)、2012年から2015年まで横浜DeNAベイスターズの監督をつとめた。
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1954年(昭和29年)1月6日福島県西白河郡矢吹町出身。

愛称は「絶好調男」。


経歴編集

選手時代編集

安積商業高等学校から駒澤大学を経て1976年(昭和51年)から1989年(平成元年)まで読売ジャイアンツ(巨人)で活躍。ポジションは、一塁手、三塁手。


選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。1979年(昭和54年)より一軍に定着した。


1980年(昭和55年)は初めて規定打席(23位、打率.268)に到達、22本塁打を放つ。同年には長嶋茂雄監督が辞任し、主力打者の王貞治も現役を引退した。

原辰徳入団後は一塁手としての起用が増えた。

1989年に藤田元司が監督に復帰すると三塁へ再コンバートされたが、シーズン序盤に負傷し戦線を離脱。その間に三塁手に岡崎郁、一塁手に駒田徳広が定着した為出番を大幅に減らし、同年末をもって現役を引退した。


指導者時代編集

解説者を経て読売ジャイアンツで1993年(平成5年)に打撃コーチ、1994年(平成6年)に一塁ベースコーチを担当。

打撃コーチ時代にはルーキーの松井秀喜を指導し、信頼関係を築き上げた。後年横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任した際に、松井は臨時コーチとしてニューヨークからキャンプ地の宜野湾に足を運んでいる。


2003年(平成15年)には翌2004年(平成16年)に開催されるアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチに就任。長嶋茂雄監督の元で五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権大会を全勝し五輪への切符を獲得。しかし五輪前に長嶋監督が脳梗塞で倒れ、代表監督として登録できなくなった為後任の監督に就任し、銅メダルを獲得した。

2012年(平成24年)から2015年(平成27年)まで横浜DeNAベイスターズの一軍監督を務めた。試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも行っていた。

2015年シーズン終了をもって監督を退任。本人は冗談混じりに「クビになった」と話しているが、実際にはフロントから慰留されたものの本人が成績不振を理由に固辞した。

筒香嘉智山崎康晃等後に主力選手となる若手を育て上げ、ファンからはTBS時代から続く暗黒時代を抜け出すDeNAの基礎を築いたとして評価されている。


監督退任後編集

解説者に復帰し、2016年(平成28年)からは巨人OB会会長に就任した。なお会長就任後もジャイアンツ関係は勿論ベイスターズ関係のイベントにも出席し続けている。

2023年(令和5年)4月6日横浜スタジアムで行われたジャイアンツ戦ではベイスターズ元監督としてセレモニアルピッチを行ったが、この時点でも巨人OB会会長だった為インタビューでは「なぜ巨人戦を選んだのか。ちょっとやりづらい。」と苦笑いしていた。

余談だがジャイアンツ及び中畑監督時代のベイスターズの選手で後任の監督でもあるアレックス・ラミレスも、同様に両チーム主催のイベントに出席している。



エピソード編集

  • 駒田徳広は巨人生え抜き選手で唯一FA宣言により国内他球団(横浜ベイスターズ)へ移籍した。その原因は当時コーチだった中畑との確執があると言われている。

  • DeNA監督就任にあたっては巨人の先輩でもある高田繁GMから要請された。高田GMは中畑の近所に住んでいた為、ラフな格好で自転車に乗り、自宅の庭で採れた10個を手土産に中畑邸を訪れた。なお本来は中畑ではなく巨人・横浜に在籍経験のあった工藤公康を初代監督とする予定だった。

  • 前述の通りルーキー時代の松井秀喜を親身に育て上げた為、強い信頼関係で結ばれている。松井は解説者としての中畑とのインタビューで「俺中畑さんサードの守備下手くそだなと思った」(松井も星稜高校時代はサードを守っていた)等と軽口を叩いているが、中畑夫妻への感謝を口にする事もある。実際、DeNAの宜野湾キャンプでは「中畑さんにはあまり恩はないが逝去した仁美夫人に若い頃世話になった」と冗談混じりにコメントしている。

  • アレックス・ラミレスは巨人時代から日本で監督になりたいと公言しており、横浜選手時代も中畑のいる監督室をしばしば訪ねていた。ある時ラミレスが怠慢走塁でアウトになった際、中畑は試合終了後にラミレスを監督室に呼び、「ラミちゃん、監督になりたいんだよね?ああいうプレーをする選手を使いたいと思う?」と尋ねると、ラミレスは即座に「思いません。」と答えた。それが関係しているかは不明だが、後年監督に就任したラミレスは怠慢プレーを許さず二軍への懲罰降格も辞さなかった。

  • DeNA監督時代に選手だった三浦大輔が監督に就任し、2024年(令和6年)に日本シリーズを制して26年ぶりに日本一に輝いた時、中畑は解説席に座っていたが、生中継中であるにもかかわらず感極まって涙声でチームを祝福した。

背番号編集

背番号使用年所属チーム備考
241976年〜1989年読売ジャイアンツ選手
721993年読売ジャイアンツ1軍打撃コーチ
721994年読売ジャイアンツ1軍一塁ベースコーチ
332003年〜2004年アテネオリンピック日本代表ヘッドコーチ
332004年アテネオリンピック日本代表監督
702012年〜2015年横浜DeNAベイスターズ1軍監督

外部リンク編集

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