概要
1993年、星稜高校からドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
2003年にFA権を行使し、MLBへ移籍。ニューヨーク・ヤンキースに入団。2009年にはワールドシリーズでのMVP選手となる。
2010年よりロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムへ移籍。
2011年よりオークランド・アスレチックスに移籍。
2012年はフリーランスとして開幕を迎えるも、タンパベイ・レイズとマイナー契約、その後メジャー昇格。
2012年12月28日(※日本時間。現地時間では27日)に現役引退を表明。
2013年5月5日、恩師の長嶋茂雄と共に、安倍晋三首相(当時)から国民栄誉賞が授与された。
同年7月28日(※現地時間)には引退セレモニーがヤンキース主催で行われた。
引退後はニューヨーク・ヤンキースのGM特別アドバイザーに就任。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム |
---|---|---|
55 | 1993年〜2002年 | 読売ジャイアンツ |
55 | 2003年〜2009年 | ニューヨーク・ヤンキース |
55 | 2010年 | ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム |
55 | 2011年 | オークランド・アスレチックス |
35 | 2012年 | タンパベイ・レイズ |
選手として
NPB、MLB通算の本塁打は507で、2020年終了時点で歴代7位。
NPB時代は稀代のホームランバッターとして名を馳せた。NPBでの実働は10年だが本塁打王・打点王・最高出塁率のタイトルに3度も輝き、ベストナインも1995年から8年連続受賞。更には首位打者にも1回輝くなどアベレージヒッターとしても優秀だった。なお、三冠王は惜しい所で逃している。大舞台にも強く、2000年に日本シリーズMVPを獲得している。
MLBでは中距離打者にシフトした関係でホームランは大きく減少したが、チャンスに強い打撃でチームを支え、ヤンキースのクリーンナップを任された。中でも2009年にはここ一番での勝負強さが光り、ワールドシリーズMVPを獲得した。
シーズンホームラン数はNPBにおいて50本、MLBにおいて31本が最多(ともに日本人選手として歴代2位)。
ヘッドスピードがとにかく速かったことで知られ、ある投手曰く「手を出さないから打ち取ったと思った次の瞬間ホームランになっていた」、別の投手曰く「投げてみるまで結果が分からない」。
2023年シーズン時点では日本人選手におけるメジャー通算最多本塁打記録(175本塁打)の記録保持者であったが、翌2024年4月21日(現地時間)にロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手がMLB通算176本目の本塁打を放ったことで、とうとう記録を更新された。
これについて松井氏は、
「大谷選手は昨年、メジャーリーグで本塁打のタイトルを取ったほどのパワーも技術もある選手。私のメジャーリーグで打った本塁打数は、私自身誇れる数字ではないと感じていますので、今後も大谷選手が200、300、400本と日本の野球ファンの皆様が喜ぶ数字を残していく事を私も応援しております」
「彼の存在の大きさ、選手としての素晴らしさを思えば、私の数字と比べる必要は全くないと思います。ファンの皆さんがそれぞれいろいろ予想して楽しめばいいと思いますし、私が思うのは、彼のいい状態でのプレーを応援したいなと思うだけです」
と述べ、大谷選手の今後の活躍にエールを送った。
逸話
野球を始めた頃は右打ちだったが、すぐに左打ちに転向した。その理由というのが「あまりに打ちすぎるから周りからハンデとして左打ちを命じられた」というもので、本人が同じく右投げ左打ちである掛布雅之氏のファンだったことから渋々承諾したという。
このことからも分かるように、小学生時代の松井氏は阪神ファンであった。
松井氏の巨人在籍時に監督であった長嶋茂雄氏は松井氏と付きっ切りで素振りの指導を行っており、松井氏が渡米後打撃不振に陥った際には電話越しに素振りの音を聞いて打撃のチェックを行った。
松井氏が長らく背負った背番号「55」は王貞治氏のシーズンホームラン記録(当時)の55本にあやかってつけられたという噂が流れているが、本人が否定している。
ちなみにこの「55」は彼が在籍したいずれの球団でも欠番指定されていない。
実はWBCには一度も出場しておらず、3回あった機会のいずれも辞退している。
上記にある通り掛布雅之氏のファンで、彼と松井氏のインタビューは、かなりくだけた様子の松井氏の姿を見る事ができる。また、2021年に日本テレビの番組でタイガースの佐藤輝明の印象について「掛布さんの再来」と憧れの掛布の名を挙げて絶賛している。但し翌2022年に佐藤が打撃不振に陥った際は「今のままではずっと打てない」と批判もしている。
松山ホステス殺害事件で被疑者として指名手配されていた福田和子は、松井氏の出身地根上町に潜伏していた時期があり、和菓子屋の主人の内縁の妻として同店に勤務していた。少年時代の松井も同店を訪れた事があり、福田が逮捕された際、松井は福田の印象について「綺麗で愛想の良い奥さんだった」と語っている。
5打席連続敬遠事件簿
彼を語る上で絶対に外せない逸話に、1992年夏の甲子園2回戦で起きた松井秀喜5打席連続敬遠事件簿がある。
星稜高校の4番であった松井氏は、対戦相手であった高知・明徳義塾高校から5打席全て敬遠(走者がいない打席ですらも)を受け、結果星稜は敗退。この行為を見かねた観客から罵声や怒号が飛び交う高校野球史上類を全く見ない大事件と発展した。試合後も明徳義塾の滞在する宿舎に抗議や嫌がらせの電話が殺到し、報道陣や過熱したファンが押しかけるなどして宿舎や選手・監督らを警察や警備員が警護する事態にまで発展した。なお、全国から心無い非難を浴びせられた明徳義塾は、それによる精神的ダメージが響いて次の3回戦で広島工業に0-8とボロ負けしている。
明徳義塾の馬淵史郎監督は当時の松井氏を「高校生の中に一人だけプロが混じっているようなもので、絶対に打たせるわけにはいかなかった」と勝利のためにはやむを得ない指示だったと語っている
(当時の高知勢は1987年から91年までの夏の甲子園の最高成績が2回戦まで[2回戦が初戦だった年あり]と低迷していた)。
ゴジラの呪い
上記の5打席連続敬遠事件簿同様、彼を語る上で絶対に外せない逸話として「ゴジラの呪い」が存在する。
あのベーブ・ルース氏が金銭トレードでヤンキースへ移籍したという事件をボストン・レッドソックスが起こしたことで、レッドソックスは1918年を最後に86年間も世界一から遠ざかってしまい、メジャーリーグファンはこの現象をルース氏のニックネームに肖ってバンビーノの呪いと称した。
その「バンビーノの呪い」を引き合いに出して、松井氏がヤンキースを去った2009年を最後に、ヤンキースも世界一から2023年時点で14年間も遠ざかってしまっている。一部のヤンキースファンはこの現象を「ゴジラの呪い」「ヒデキ・マツイの呪い」と称しているらしい。