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1925年9月17日生まれ。東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身で、実家は大きな中華料理店を営んでいた。因みに杉下の父親は杉下が生まれた当時、既に年齢が50歳とかなりの高齢で、杉下曰く「父親は身体を壊して寝込んでいる印象しかなかったものの、大の野球好きで寝床にいながら東京六大学野球の試合をラジオで聞きつつスコアブックを付けていた」との事。

旧制帝京商業高校(現:帝京大学中学校高等学校)では一塁手・4番を打ち(但し、たまに投手も務めていた)、卒業後に1944年12月25日、軍隊に入隊。
当時としては珍しく身長は180㎝を越える大柄である反面元々弱肩であったが、野球経験者という理由だけで中隊対抗手榴弾投げ競争の代表に選ばれる。だがそこから必死で遠投の練習を行い、その甲斐あって肩が強くなり、優勝する(またその練習の際、元々下手に近いサイドスローであった投げ方をオーバースローへと矯正している)。
戦後、いすゞ自動車を経て明治大学専門部(旧制)に入学。
1949年、中日ドラゴンズに入団。1年目こそは肩を痛めた事もあって8勝12敗と負け越した(但し、東急フライヤーズ《現・北海道日本ハムファイターズ》戦では大下弘から後述のフォークボールを駆使して3打席連続三振を奪っている)ものの、翌1950年には27勝15敗を挙げ、其処から6年連続20勝以上を記録。中日不動のエースとして君臨する。
1961年に大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍。通算215勝を挙げた。
引退後は中日、阪神で監督を務めたこともある。またコーチとしては中日、大毎、阪神、巨人、西武で務めた。

現在は野球解説者であるが、90歳を超えた現在でも中日の臨時コーチを務めている他、1956年から1960年まで東映フライヤーズの監督を務めた岩本義行が2008年9月26日に死去したことに伴い、1950年代にプロ野球の監督を務めた人物では最後の存命者になった

明大時代にOBである帝京商業の恩師、天地俊一(後に中日監督)にフォークボールを習得、プロ野球で活躍した。
1954年には自己最多タイ記録である32勝(12敗)・防御率1.39・273奪三振を記録して中日のリーグの初優勝を飾るが、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた。それ以外にもMVPとベストナイン、沢村賞に関しては1951年、1952年の連続を含む史上初の3度目の受賞となった。またこの年のシーズンでは優勝を最後まで争った巨人からはチームで14勝(12敗)を挙げたが、そのうち杉下が一人で11勝を挙げた。

同年、同じく三原脩監督の下でリーグ初優勝を遂げた西鉄ライオンズとの日本シリーズでも大いにフル回転、チームは4勝3敗で西鉄を破り、天地監督の元で日本一になった上に、杉下自身も3勝1敗の成績を上げ、シリーズMVPに輝いた。(但しそれ以降、中日は2007年まで日本一から遠ざかる。)

「フォークボールの神様」と呼ばれるが、杉下自身はあくまでも配球は速球中心とし、そこにカーブ等の変化球を交えるスタイルで、フォークボールには固執しなかった。しかし、直球勝負にこだわり過ぎるあまり、1956年3月25日の対巨人戦では、最終回に代打・樋笠一夫に釣銭無しの日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ本塁打」を浴びる等の憂き目に遭っている(※)(因みに打った樋笠はその5年前の1951年6月19日の中日戦で代打で出場《加えてこれが前年主軸打者として在籍していた広島から移籍してからの初の出場でもあった》、その時にもその杉下からいきなり移籍初のホームランを打っている。尚、樋笠は変化球は大の苦手で全く打てず、当時の巨人の監督である水原茂から「お前の様なバッターはかなり珍しい」と言われたものの、一方ではストレートには滅法強かった為、杉下の直球に拘る性格を十分に熟知したが故に成し遂げられた偉業と言える)。

(※)因みに樋笠は現役引退後は社会人野球チームである、カメラ製造会社のヤシカの監督や近鉄一軍コーチ等を務め、更には巨人の橋本道淳球団代表の紹介で第一広告社に入社。更生部長などを歴任し、1975年に定年退職するまで勤務した他、1977年には東京・月島のイヌイ運送に入社して総務、業務部長、常務取締役を歴任して、1988年に退職。得意先に出向くと必ず杉下から打った「あのホームラン」の話が決まって話題に浮上。それ故に商談がスムーズに進んだ為、ある意味樋笠は杉下から後の人生の恩恵を受けたとも言える

また、『本物のフォーク』を投げた投手は自分以外に村山実村田兆治野茂英雄佐々木主浩を挙げている。

200勝がかかった1957年10月23日、対読売ジャイアンツ25回戦では、後にプロレス界で大活躍する馬場正平(後のジャイアント馬場)と投げ合い、1-0の接戦の末に勝利。僅か現役8年目にして200勝を飾った(但し、「名球会」に入る条件である200勝をクリアしたものの、その他に名球会では「昭和以降の生まれ」というボーダーラインが敷かれている為、杉下は入会対象外となっている(杉下は大正《大正14年9月17日》生まれ。この事例は他にも藤本英雄野口二郎ヴィクトル・スタルヒン別所毅彦等も当て嵌まる)。

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