明、二郎、昇、渉とプロ野球選手を輩出した野口四兄弟の次兄。
中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)時代は1937年夏と1938年春の甲子園大会で主戦投手として優勝。
しかも夏の大会の時は川上哲治の熊本工業学校(現・熊本県立熊本工業高等学校)に投げ勝ち、春の大会の時はノーヒットノーラン1試合を達成した。
中京商から旧制法政大学に進むが中退し1939年に東京セネタース(のちの翼軍)に入団。
入団して2年連続で33勝を上げ、さらに2年目の時防御率0.93で最優秀防御率のタイトルを獲得。
1942年5月23日の朝日戦ではあわやノーヒットノーランの快投を演じ、翌24日の対名古屋軍戦(後楽園球場)も先発登板する。この試合では当時世界最長の延長28回を344球で先発完投(名古屋軍の先発投手・西沢道夫も共に完投)。同年は66試合に登板しリーグ1位の40勝、264奪三振を記録した。
(シーズン40勝はヴィクトル・スタルヒン、稲尾和久(ともに42勝)に次ぐ記録。またこの年のシーズン19完封は翌年に藤本英雄がタイ記録を作ったものの、現在もプロ野球タイ記録。)
翌1943年25勝をあげて応召。
戦後の1946年に阪急に復帰、当時日本記録の31試合連続安打(8月29日 - 10月26日)を記録した。まさに元祖二刀流である。1947年には56試合に登板し24勝を上げたが、以後は打者としての出場機会が多くなり、1953年限りで選手を引退。
投手として実働12年で登板517試合、通算237勝を上げたが大正生まれのため、名球会への入会資格対象外となっている。(同様に別所毅彦(310勝)、スタルヒン(303勝)、杉下茂(215勝)、中尾碩志(209勝)、藤本英雄(200勝)も対象外。)
引退後は毎日・阪急のコーチ、近鉄二軍監督などを歴任、1989年に野球殿堂入り。
2007年5月21日に肺炎のため兵庫県宝塚市の病院で死去、88歳没。
2017年8月12日、NHK名古屋放送局製作で二郎が主役のドラマ『1942年のプレイボール』が放送された。
(二郎役に太賀、長男・明役に勝地涼、三男・昇役に斎藤嘉樹、四男・渉役に福山康平。)
因みに