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村山実

むらやまみのる

兵庫県出身の元プロ野球選手、野球指導者。二代目ミスタータイガース。
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概要編集

1936年12月10日、兵庫県尼崎市出身(生まれは神戸市北区)。

ポジションは投手。右投右打。

住友工業高校卒業後、立教大学野球部のセレクションを受けたが、野球選手としてはやや小柄な体格だったために不合格となり、関西大学に進学する。

大学では上田利治とのバッテリーで活躍し、プロのスカウトたちから注目されるが、3年生の時に肩を痛めてしまい、村山を狙っていた球団は一斉に手を引いていった。そんな中、阪神タイガース(当時は大阪タイガース)だけは当時の球団社長が親身になって相談に乗ってくれたため、村山の心はタイガース一択となる。翌年、村山が肩の怪我を乗り越えて復活を果たすと、一度は手を引いた各球団は再び掌を返して村山の獲得に乗り出し、中でも読売ジャイアンツ(以下巨人)は前年に獲得した長嶋茂雄を超える契約金2000万円を提示したが、村山はこの話を蹴り、契約金僅か500万円のタイガースに入団した。球団側も少なすぎたと思ったのか、阪神電鉄入社後に出向という形で村山と契約した。


ルーキーイヤーの1959年から小山正明と並ぶWエースとして活躍し、18勝10敗、防御率1.19で最優秀防御率と沢村賞を獲得したが、新人王は当時の新人本塁打記録を更新し、更に本塁打王を獲得した大洋ホエールズの桑田武に譲った。なお、プロ初登板となったオープン戦は、“初代ミスタータイガース”藤村富美男の引退試合だった。ちなみに、プロ1年目で沢村賞を獲得しながら新人王を逃した選手は現在でも村山だけである。

1960年は急性胃腸炎で倒れるなど調子が上がらず、8勝15敗と大きく負け越したが、1961年からは復調し、1962年にはタイガースの2リーグ制以降では初、1リーグ時代を含めると通算5度目の優勝に大きく貢献した。

1963年以降も右腕の血行障害や肩の痛みに悩まされ続けながらも投げ続け、1964年には小山が抜けたが、ジーン・バッキーがその穴を埋め、二度目(通算では6度目)の優勝を経験。1969年にはコーチ兼任となり、エースの座を江夏豊に譲る。翌1970年からは選手兼任監督となった(この年に防御率0.98で3度目の最優秀防御率獲得、この年の防御率0.98は戦後、並びに2リーグ制のプロ野球に於いて唯一の防御率0点台である)。


1972年に現役を引退(監督業は同年のシーズン開幕からヘッドコーチに任せており、この年のシーズンのほとんどは選手専任だった)。

その後解説者の傍ら、しばらくスポーツ用品メーカーのSSKの社員として勤務していた。この時の部下の1人に漫画家志望ながら大卒で就職した沢田ユキオがおり、沢田が村山に夢を打ち明けたところ、村山は「やりたいことを思い切りやればいい」と背中を押し、上京させるきっかけを作った。

1988年から1989年に専任監督として再びタイガースの監督を務めたが、低迷していたチームを立て直すことは出来なかった。1993年、野球殿堂入り。


1998年8月22日、直腸癌で死去。享年61。

選手、監督時代を通じて着けていた背番号11はタイガースの永久欠番となった。

(阪神では11は不吉とされ、先輩からも止められるほどだった(先輩もつけていた時期有)。しかし、それをはねのけて活躍した結果である)


また、2003年に新たに通算250セーブ以上(日米通算含む)を達成した投手でも入会を認める事が規定され、この時既に通算250セーブを達成していた佐々木主浩(当時マリナーズ所属)と高津臣吾(当時ヤクルト所属)が入会するまでの間、大卒の投手で唯一名球会入りした選手だった。(名球会は昭和以降の生まれで、通算200勝以上、または通算250セーブ以上を記録した投手、あるいは通算2000安打以上を記録した打者に入会資格が与えられる)。

プレースタイル編集

全身を大きく使った独特かつダイナミックなフォームが特徴で、闘志をむき出しにして険しい表情を浮かべて全力投球するその姿は同じく苦しそうな表情で走るチェコの陸上選手エミール・ザトペックを連想させたため、「ザトペック投法」と呼ばれた。大学時代にバッテリーを組んでいた上田利治によれば、村山の投球スタイルは学生時代には既に確立されていたとのこと。

フォークボールを決め球としており、多い時は1試合で30球以上投げたとも言われている。オーバースローサイドスロースリークウォーターで投げ分けられるフォークボールは他球団の打者を苦しめた。

またそのフォークも回転の少ない一般的にいわれる物に加え今でいう縦スライダーやスプリットの三種類を投げ分けていた。

制球力が非常によく、暴投は通算で16個しか記録されていない。300イニング以上投げて暴投がゼロだったシーズンもある。フォークボールを得意とする投手は概して暴投が多くなりがちで、同じくフォークボールを決め球としていた村田兆治の通算暴投数は歴代最多の148である。

村山自身、制球力には自信を持っていたようで、1963年8月11日の巨人戦では自信を持って投げた球をボールと判定されたことに怒り、球審に「どこ見てるんや!わしは一球一球、命かけて投げとるんや!」と猛抗議した結果退場を宣告され、感情を抑えきれず涙を流したこともある。ちなみに、この時村山はリリーフで登板したばかりであり、「投手は打者1人を終えなければ交代出来ない」というルールの例外的なケースとなった。


「何点差だろうと勝てばいい」というスタイルだった小山正明とは対照的に、村山は点差に関係なく最初から最後まで全力投球を貫いた。ある試合で解説を務めた小山が「どんな点差でも手を抜いてしまう投手はいるんですか?」というアナウンサーからの質問に対し、「それはあります」と前置きした上で、唯一人の例外として村山の名を挙げている。

終生のライバル長嶋茂雄編集

村山実といえば、1959年6月25日に後楽園球場で行われたプロ野球史上初の天覧試合で巨人の四番・長嶋茂雄にサヨナラホームランを打たれた投手として有名である。

この日以来、村山は長嶋を激しくライバル視し、「打倒巨人・打倒長嶋」に燃えるようになり、通算1500および2000個目の奪三振は事前に予告した上で長嶋から奪っている。

天覧試合で長嶋に打たれたサヨナラホームランについて村山は生涯「あれはファウル」と言い続けたと言われているが、その一方で「天皇と背番号3」という本に「私にとってサヨナラホームランを打たれたことは勲章」というコメントを寄せている。


プレー以外でも村山は長嶋を強く意識しており、ルーキーの江夏に「俺はこっち(長嶋)、お前はあっち()」と語ったエピソードは有名である。他にも、自宅の電話番号の下四桁が「3279」で、「3(=長嶋)に泣く」の語呂合わせになるために変更を申し込んだというエピソードもある(しかし、当時は電話を引くのも大変だったため、村山はしばらくの間、渋々この番号を使い続けたそうな)。


あるインタビューで村山は長嶋との勝負について「勝てば官軍」「少々卑怯なことをやってもいい」という旨の発言をしているが、長嶋は村山との勝負を振り返って「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球は投げなかった」と答えている。事実、通算で300打席を超える二人の対決の中で死球はゼロであり、村山が長嶋との勝負は常に正々堂々とした姿勢で臨んでいたことが窺える。


現役時代は殆ど私語を交わさなかった村山と長嶋だが、引退後は意気投合し、「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。

また、村山の死後、線香をあげるために村山の自宅を訪れた長嶋が村山夫人に「(ご主人は)凄いピッチャーでした」と話すと、夫人から「主人もユニホームを脱いでからは長嶋さん、長嶋さんって。よほど好きだったんでしょうね。」と言われたという。


なお、村山と長嶋はそれぞれ阪神と巨人の監督を2度ずつ務めたが、2人の在任期間が重なることはなかった。

通算成績編集

509試合登板、348試合先発、192完投、55完封、222勝147敗、2271奪三振、防御率2.09(セ・リーグ記録)、WHIP0.95(プロ野球記録)、勝率.602

主なタイトル編集

最多勝、最多奪三振ともに2回、最高勝率1回、最優秀防御率3回、MVP1回、沢村賞3回(プロ野球タイ記録)、ベストナイン3回

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