概要
兵庫県立高砂高等学校から1952年に大阪タイガース(現阪神タイガース)のテスト生兼打撃投手として入団。
翌年から1軍登板を果たし、1年目の1953年に5勝、1954年には11勝を挙げて先発ローテーションに定着。1958年から3年連続20勝以上を達成。1962年はセ・リーグ記録の5試合連続完封を含むシーズン13完封、2006年に藤川球児が更新するまで球団記録だった47イニング連続無失点を記録。村山実と共に2本柱としてリーグ優勝に貢献し、沢村賞を受賞した。
ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)でもプレーした。
人物
針の穴を通すように絶妙なコントロールが持ち味で、「精密機械」という異名を持っていた。
チームメイトであった吉田義男は、「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多かったため、吉田の守っていたショートにボールは滅多にこなかったらしい)と語っている。